王国史において、聖女アンジェラの名が初めて登場したのは、現時点から十年以上も前のことである。
黒豹帝と呼ばれた偉大なる前王、ファンガンテオン1世の治世下において、
大陸中央領域、即ち「王国」における「月の教団」の支配は揺るぎないものであった。
彼らは、地を三方へと駆ける大いなる霊道、竜脈(タイド)を崇拝する主神無き教団。
その中でアンジェラは、彼らの教義が神聖視する「白銀の髪」を持った乙女として、記されている。
曰く、信心深く、悲と愛の双方に慈しみを持つ少女。
その言葉は巨悪の咎さえ溶かし、その微笑みは心の喪失さえ癒すと謳われるほどだった。
民に愛され、列聖を望まれていた少女の輝ける神威は、
しかしある時、ある信徒の働いた罪によって、突如として地に堕ちる。
その信徒…つまりアンジェラの父親は、教団の技術を他国へ横流ししようとした罪で告発された。
アンジェラの嘆願によって死刑は免れたものの、宣告された「遠く貧民街への流刑」という罰は、
未成熟な社会構造と、拡大した貧富の差を持つ王国にあっては、実質的な死刑と同義であった。
教団の信徒たちの多くは、アンジェラが父親と離縁することを願い、それを訴えた。
しかし、とうの彼女は、神の恩寵を自ら手放し、父の罪を共に贖うことを選んだ。
まだ若く、それも「聖なるもの」の模範として生きてきたアンジェラが、
どうして家族を見放すことなど、選べただろうか?
彼女は毅然とした心持ちのままに、それが「正しいこと」だと信じ、貧民街へと堕ちていった。
王国における聖女の伝説は、一度ここで終わる。
…やがて生活苦が始まると、彼女の父は以前にも増して愚鈍になった。
たった一人の妹は旅の奴隷商に売られ、そうして手に入れた多額の金銭でさえ、
父の浪費と、病に伏した母の薬代に消えていった。
「私は、間違えた。」
いつからか、アンジェラの心は後悔に支配されるようになった。
もっと言葉巧みに、父の減刑を願うべきだったのかも知れない。
より信心深く教団に仕え、父や母、そして妹を、もっと早く神職に導くべきだったのかも知れない。
そうでなければ、こんなことにはならなかった、かも知れない。
妹を失うこともなかった、かも、知れない。
失敗した私が、ここから家族を救うためには、一体何が必要なのだろうか?
どれだけの「正しいこと」を積み上げたら、あの幸せな日々を取り戻せるのだろうか?
その答えはでないまま、ついに母は、アンジェラに手を握られながら死んだ。
そして、それを契機に父は、アンジェラに対して暴力を振るうまでになった。
顔を打たれる度に、彼女を形成していた聖女の外殻が剥げ落ちていく。
空腹に涙する度に、彼女を形成していた天使の内核がひび割れていく。
この頃になると、もはや彼女の瞳から清浄の光は喪われ、
「いつ」「どこで」
「どのようにして」
「この男を、主たる龍脈の"みもと"へ送るか」
それだけが、アンジェラの脳裏を埋め尽くしていた。
そしてついに、あらゆるヒトにとっての運命の日が来る。
酒場から、いやに興奮した様子で帰ってきた父が机の上に叩きつけたその令状には、
こう記されていた。
「国王陛下の御崩御により、
新たな継承の儀、コロセウムを開催するものである。」
―――と。
アンジェラの父にとって、それは汚泥の底から浮かび上がる最期のチャンスに思えたのかも知れない。
今まで剣を握ったこともない鈍重な男が、
何を息巻いているのだろう、とアンジェラは嘆息する。
それでも観戦を命じられたアンジェラは、
微かな期待と共に王都を訪れ、血気に盛る闘技場へと足を運んだ。
「ぼろ」を引きずるその姿は、みすぼらしく、惨めで、哀れで、禍々しい。
彼女がかつての聖女だと気づいた者は、民の中にはいなかった。
そしてそれは、彼女が生まれてより見た中で、最も鮮烈な光景だったに違いない。
潰れた果実のようになって、闘技場の砂地に散らばった「愛すべき父の内容物」が、
これ以上なく艶やかに見えたことを、彼女は今でも覚えている。
神の恩寵は、コロセウムの中にあった。
「正義」は為されたのだ、と。
アンジェラは、震える手で唇を押さえつける。
やがて彼女が犯していたであろう父殺しの罪。
それは「代行」されたのだ。
ああ、と火照る吐息が指の隙間から漏れ、
狂おしい程の畏敬が、彼女の胸中を埋め尽くす。
視線は、未だに乱戦の最中に踊る「死の天使」の一挙手一投足にそそがれ、
アンジェラはその美しさに、ただ感嘆の息をこぼすばかりだった。
我が天使。我が救い。
ああ衆愚ども、あれなるを見るがいい。
かの者の、血風にそよぐ髪の色は白銀!
私と同じく、運命に愛されし者―――。
―――なんと「正しい」お姿なのだろう。
観客席に立ったアンジェラが、求めるように伸ばした指の先で踊り狂う、血塗れの拳士。
彼こそ、このコロセウムを勝ち抜き、次代の王となる者。
月蝕の王子、ルーセントであった。