私が「それ」と出会ったのは、
世界を切り裂いた「大変容」から、およそ三か月後のことだ。
テレンス将軍の指揮するエスティア連邦軍の分隊、約200名の中に、私はいた。
私たち分隊の目的は、大変容によって打撃を受けたと思しき王国周辺の村落を巡り、生き残りを探すこと。
あるいは、野晒しにされた遺体を見つけ、弔うことだった。
私たちは、大地に溢れ返る死臭から感覚を守るため、
気密性の高いフルメイルに身を包んで行進を続けた。
墓穴を掘っては埋め、掘っては埋めるの繰り返し。
数日に一度見つかっていた生存者は、
やがて一週間に一度、一か月に一度と、発見のペースを落としていった。
百にも二百にも及ぶ死体の全てを確認し、それらを地中にしまい込む過程で、
私はようやく実感した。本当に「ヒトの半分」が死んでしまったのだ、と。
「大変容」の瞬間。
妖しく輝いた夜天の月光が、あまねく全てを照らした時。
まるで有毒の恩寵を吸い込んだかのようにして、
父と母、そして妹が倒れた瞬間の光景を、
私は生涯、忘れることはないだろう。
曰く―――、「神罰」であるという。
「選定の光」が、我々を照らし給うたのだと。
我らが世界の次代百年を担う希望の王。
月の王子。
教皇にして拳士、コロセウムを勝ち抜いた、あの少年が。
「聖別」を行ったのだ、と。
生き延びた人々の中には、声を高らかに、王への復讐を叫ぶ者もいた。
ああ、確かにそうだ。あれが王の意思によって引き起こされたものであるならば、
領民たる我々はそれに抗わねばならないだろう。
しかし私には、それが成就するとは到底思えなかった。
なぜなら…死人が、多すぎる。
かつて世界の中心は王国であり、世界の根底にあるものは、タイドだった。
しかし今、世界のほとんどは「粗雑な死」によって形作られている。
それを行ったのが、たった一人の人間の意思だというのなら。
どう戦う?
どう抗う?
王がひとたび指を鳴らせば、残りの半分も死ぬかも知れないのに。
私には、何も分からない。
私にできることは、まだ絶望していない人々の号令に従って、
無心で手足を動かすことだけだった。
まるで動く屍だが、
未だ生きているなら、それでいい。
苦しみ抜いて死んだ皆に比べて、私の、現状の、なんと、幸福なことか。
私は、自身の心を狂気から遠ざけるために、そう言い聞かせ続けた。
だから、そう。
「それ」は私たちと同じように、
「墓堀り」だったのだと思う。
私のように生き残って、
たった一人で世界に「取り残されて」、
それでも呼吸を続けなければならない。
私の家族を殺したタイドを吸って生き永らえている。
この哀れな死に体に、
墓穴を用意する者。物。魔物。
鉄塊。
我々の野営を襲った「それ」は、
自らの熱によって陽炎を巻き上げ、
地鳴りにも似た駆動の音を響かせていた。
私のような死に体の男には、
眩しすぎるほどに輝く月夜の晩。
月光を受けて、鈍色に輝く「鋼鉄」が、
哨戒から戻った私の前に立っていた。
野営地にいた分隊員は?
一面に散乱した血肉の川が答えだ。
切り裂かれ、轢き潰され。
原型を留めぬ彼らの怨嗟が聞こえる。
ああ、と感嘆の息を漏らして、
私は剣の柄に手をかけた。
全身の毛が逆立つ。
唾液が分泌されて、犬歯が濡れるのを感じる。
感覚が尖る。
そうだ、あの「大変容」を引き起こした者が、
我々の命を許すわけがない。
我々は決して「生き残り」などではなかった。
我々は「取りこぼし」だ。
「神(タイド)」は、鏖殺を望んだのだ。
その鉄塊は、両の手に備えた長剣を、
交差するように振りぬいて姿勢を落とした。
互いに、素顔の見えぬフルヘルム。
意思を汲む必要などまっさらに無い。
私は、ついに救いが訪れた、と思った。
神の遣わし給うた鋼の天使と、
色褪せた世界を歩く屍。
―――滅ぶべきは私なのだ。
圧し固められた絶望が、
私の内側で爆ぜ、
肺を焦がすようだった。
そして私から生じた、意図せぬ声。
雄叫びのような何かだ。
私は、戦おうとしているのか?
だが、喜びによく似た感情があった。
嗤っていたのだから、きっとそうなのだと思う。
神への復讐を、不可能だと謗(そし)ったこの私が?
しかし、これは違う、
この鉄塊は「神」そのものではない、だから―――、
こいつを憎めばいい。
こいつと戦えばいい。
剣を抜き、立ち向かえばいい。
はっきりとした輪郭を有する仇、
ああ―――、「敵」よ!
今この瞬間、父と、母と、妹と、祖国と、故郷と、戦友と、
その全ての復讐を許された自分は、
なんと幸福な屍であることか――――!
私が剣を抜き、振り上げ、
渾身の力と共に飛び掛かるよりも早く、「それ」は前に出た。
まるで私など、その場所に存在しないかのように。
爆発的な加速を伴って前進する鋼鉄の雄牛。
双剣は振るわれないまま、「それ」に叩きつけられた私は、
全身が八つ裂きになるような痛みに襲われながら、それでも自分が宙にいることを知覚した。
着地を―――、
準備する間さえなく、それでも幸運だったのだろう、私は体の左半分をクッションにして大地に転がる。
呼吸も、喀血さえもできない痛みと痺れが全身を押さえつけた。
そんな状態でも尚、視線だけは「それ」に向け続ける。
「それ」は既に、私への殺意を失い、新たな犠牲者を探すように首を回した。
「怒り」が、一息の呼吸を押し出すだけの活力を、私の肉体に取り戻させる。
ああ、ひしゃげたヘルムが邪魔だ。
これで、長かった死体探しもおしまいなんだ。こんなものは、もういらない。
頭から、引き剥がすように投げ捨てたヘルムが、がらんと音を立てて地面に転がる。
呼吸に遅れ、ごぼ、と音を経てて、大粒の血玉が私の喉を通り、口から零れると同時、
「それ」がヘルムの転がる音に気づき、私に再びの視線を注ぐと同時、
そして、あの夜と同様に、妖艶に煌いた月明りが雲間から覗き、
私と「それ」の間に一筋の道を照らすのと同時に、
私は、極めてエスティア人的な、
より直接的に表現するならばまさに「人獣の如き」俊敏さで体勢を直し、
両脚で地を踏み固めて跳んだ。
保身など度外視した、
「どうなろうがそれで終わり」の死の跳躍。
手に剣はない。これは、私が最も信頼を置く武器である「牙」を、
ただ「それ」の鎧の隙間に突き立てようとするだけの跳躍だった。
そして、私が最期に眼にした光景は、
交差する、眩く輝く鈍色の光。
「十字は、救いの示しである」と。
かつて極北で出会った、学徒の言葉が蘇る。
月光を背に受けた鋼鉄の騎士。
それは在りし日に、我々を照らした太陽のように黄金色に瞬き、
その双剣によって、私の両眼を斬り結んだ。
私は光を喪って地に転がり、
やがて巻き起こった剣戟の音が、
遠く、遠くへと離れていくのを聞いた。
===
―――病院で目覚めた時、
いや、結局のところ「眼」は開かなかったのだが、
聞いたところによると、私は「それ」にトドメを刺されるよりも前に、
自軍の勇士によって救助された、ということらしかった。
そして私は病室で、テレンス将軍による聴取を受けている。
その傍には、「それ」を退けた勇士もいるという。
「ジョン・ロットワイラ少尉。
指揮官として、そしてエスティア人のひとりとして、あなたの生還を嬉しく思います。
聞かせて頂いた「鋼鉄の騎士」に関する情報は、必ず我々の戦線に届けます。
あとは、療養に努めてください。」
「…はい。勿体ないお言葉です、テレンス王。
私が成し遂げられなかった、家族と、故郷と、戦友たちの仇を、
どうか、よろしくお願いします。」
私は、うな垂れたまま告げた。
そして、テレンス将軍が何か言葉を発しようとしたのか、息を吸い込む音が聞こえた、その時、
それを遮るようにして、重く鋭い、澄んだ声が私の耳に届いた。
『私が必ず、奴らを殺す。
王国の民も、教団の信徒も、傀儡となった王も、そしてあの鋼鉄も、全てだ。
ロットワイラ少尉。これ以降、あなたが悪夢を見る必要はない。
あなたの復讐は今、私の復讐になった。』
姿の見えない、女の言葉が胸を打つ。
それは重厚な殺意と、憎悪に塗れた暗い声色だったが、
しかしそれゆえに、私の心臓に深く、沈み込んでいった。
「…どうか、頼みます。どうか…。」
上手く言葉を紡ぐことができず、
私は両手で、喪われた眼窩を覆う。
===
「…ルイゼット。確かに我々は王国を打倒し、ルーセントも倒すことになるでしょう。
しかし、あのような物言いは―――、」
『いいえ、テレンス将軍。
彼のように凄惨な体験をした者に、易い励ましは不要です。
彼の魂に深く刻まれた爪痕を、私の魂に移植する。
それだけが、唯一許された対処療法だ。』
「…あなたは、精神科医ではないでしょう?」
『ええ、今の私は執刀医です。
ただ奴らの心臓にメスを入れることでのみ、彼を救ってみせましょう。』
「やれやれ…。
しかし、その豪胆さが今は頼もしい。
ところで、あなたが戦った鋼鉄の騎士について、
我々は「オルカデス」と呼称することにしました。
これは古い言葉で、「太陽の父」を意味します。」
『…「戦の母(モルゴース)」ではなく?』
「ええ。どうやら、極めて男性的な闘争心をお持ちのようですからね。」
『…将軍、あなたの生来の説明癖に関して言及することはしませんが、
強敵を語るに際してヒョコヒョコと尾を振るその姿こそ、
私の言葉以上に不謹慎なのではありませんか?』
「… … すいません。無意識でした。」
『まあ、何でも構いません。あれを含めた「何もかも」。
王国の一切を切除するのが、あなたに見出された私の役目です。
如何に「正道」の剣を振るおうと、あの王に与する以上は「悪性」のもの。
取り除かなければ。』
「…オルカデスの剣は、正しきものであった、と?」
『定石通りの、という意味でしかありません。
狡猾でなく、邪悪でなく。搦め手を用いない。
実直で偽りのない暴力です。ただそれだけです。
だからどうという話ではない。敵であることに変わりはない。
次に出会ったら殺します。必ず。』