■ルイゼット - 01「幽鬼」


「先生! うちの…」

息子が、
と、続けようとして、
診療所に駆け込んだ母親は絶句した。

「同じ」だ。

エントランスに敷かれた毛布の上で、
寝静まるようにして横になった人々、
その顔色は仄白く、
まるで月明りに照らされているようであった。

それは唐突に倒れた、自分の息子と「同じ」―――。

看護師の一人が母親に駆け寄った。
そして、医療従事者にあるまじき、震え、脅えた様相で状況を伝える。

「先生は今、重篤な患者さんの施術中です、お待ちください!
 しばらく、お待たせしてしまうことになりますが…!」

看護師はほとんどパニックを起こしており、
それは、臨時の病室となったエントランスを駆け回る、数人の人々らも同じ様子だった。

「こんな小さな、外界から隔絶された小さな村で」
「どうしてこんな流行り病が」

そんな、村全体が、既に異様な恐慌状態にあるさなか、
まさに今、村唯一の医療施設、その施術室において、

「最初の死者」が出た。

医師ルイゼットは深く震えるように息をつき、
緩やかに、もたつきながら手袋を外す。

―――ダメだった。

可能な限りの手を尽くした。
病理は間違いなく特定できた。
対処療法も完璧にやった。

しかし―――。

村でただ一人の女医は、その両手で、覆うようにして両頬を押さえた。
凍てついた指先と、火照った頬の温度差。

震えが止まらない。歯が鳴るのを止められない。

これは「自分の管轄」ではない。
こんなものが、流行り病であるものか。

こんなものに、
手の打ちようなどあるものか。

「先生、患者さんが!」

施術室の外から、
悲鳴によく似た呼びかけが聞こえる。

待っているのだ。
同じ症状を持った患者たちが。

しかし彼らに、一体どう伝えればいい?
いっそ正直に話すか?

あなたたちが助かる可能性は0に近い、と。
その死因は「アレルギー」だ、と。

馬鹿馬鹿しい、馬鹿馬鹿しい。
誰が納得する?

いいや、そもそも、「誰かが生き残る」のか…?

死因は、急激なアレルギー反応、
それに由来する、呼吸器をはじめとした多臓器不全。

被害者は「何か」…己にとって致命的な害となるものを吸引したのだ。
それは、外界から隔絶されたこの村にあって、
他の多くの者が同様に吸引し得るものであって、
つい先日まで、全くの無害であったもの。

伝えるか?

通常の対処療法では、間に合うわけがないことを。
投薬や施術では、根本的な解決にならないことを。

病名は、「致死性の大気(タイド)アレルギー」であることを。

…理論上、誰も逃れる術がないことを。

「先生…施術の方は?」

「―――継続中だ。

 ―――、」

エントランスに戻ったルイゼットの姿に、
多くの患者たちが、視線を送っている。

今にも倒れそうな程に苦悶の表情を浮かべた若者も、
呼吸の弱った我が子の頭を撫でる母親も、
看護師たちも。

誰一人として声を挙げることはない。
誰一人として、彼女の言動を妨げようとしない。

重い「信頼」があった。

辺境の大沼地から流れ着いて、
この村に診療所を構えて10年。10年だ。

村に蔓延ったあらゆる病理と闘い、
その度に死力を尽くした。

そして多くの命を救った。
「奇跡」と謳われるような施術を以て。

だから大丈夫。
今度もきっと、先生が治してくれる。

邪魔をしてはいけない。
我先に求めてはいけない。
先生の判断はきっと正しい。
先生の判断に従おう。

村の総意が、
重篤な眼差しとなってルイゼットに刺さる。

そして看護婦長が控えめに、
短く尋ねる。

「先生、どうしますか?」

―――ダメだ。言えるわけがない。

「―――みんな、
 明日まで症状が続くようなら、また来なさい。
 今日は奥で、特に症状の深刻な者に、夜通しで施術を行わねばならない。

 施術室を除いて、院内は自由に使っていい。
 症状のある者は、少しでも体を休めなさい。」

ルイゼットの言葉を受けて、
村人たちはそれぞれに頷いた。

それが正しい対処であると、
信じたのだ。

重い体を起こして、家に帰る者。
既に歩く体力も失い、エントランスで項垂れる者。
そして、看護師の中にも、とうとう呼吸を乱して、横になる者が現れ始めた。

ルイゼットはたった一人、
死体の置かれた施術室で、扉を背にして座り込んだ。

あとで、謝らなくちゃな。
もちろん、あの世で。

自らを信頼する村人たちに嘘をつき、
己もまた、這い寄る死の足音を聞きながら、
しかしルイゼットは、落ち着いていた。

カルテの裏に、ペンを走らせる。

まさか、
こんな「どうしようもない」事態に急襲されて、
この村の寿命が尽きるとは思っていなかった。

だが、まぁ、この村にただ独りの医師として、
せめて遺さねばならないだろう。

どのような事が起きて、
どのように我々は死んだのか。

ディエクスの流儀に従い、
後の世の発展のために。

「X月X日、
 何らかの理由によって、今日、
 この第6層、第11採石場付き村落の大気(タイド)は、
 人体にとって、致命的に有害なものへと変じた。」

理由は不明、
あまりにも急激な変容だった。

とはいえ、私が以前より感じていた危うさは、
ちょうど、このような事態を予期していたものかも知れない。

龍脈(タイド)。
時に渓谷であり、時に山脈であり、時にオーロラである不明の奔流。

時に人体組成、時に知識や記憶にさえ後天的な影響を与えるもの。

人類にとって未知なるもの。

それらが機嫌を損ねた時、
どんな事態が起こるかなんて、誰にも分かりはしない。

この事象が、この村だけに起きていることなのか、
それともディエクス全域、あるいは世界中で起きているのか。

それを確かめることもできない。
もう手遅れだ。

指先をちくりと刺すような感覚。

続いて、胸元を締め上げるような息苦しさ、
指の先から始まる、痛みを伴った痺れ。

最初の患者と、同じ症状が始まった。

あちらに着いたら、まず偽ったことを謝ろう。
そして非力を詫びよう。
どうしようもなかったことを伝えよう。
それから、今までのありがとう、も。

意識は遠のき、
手放されていく。

そして―――、

次に眼を覚ました時、
ルイゼットは変わらず、施術室の扉に背を預けたままでいた。

跳ねるように立ち上がり、
口元を抑える。

呼吸ができている。正常だ。
平熱。気だるさはあるが、それ以外に目立った症状はない。

いっそ全てが夢であれ、と願うも、
施術室に置かれたままの死体が、それを否定する。

ただ、それでも、
―――最悪は免れた!

ルイゼットはそう確信して、施術室から飛び出した。

「おい、誰か!」

そしてエントランスに戻り、

見る。

まるで「死神の轍」だ。

老若男女。

症状に重いも軽いもない。

並べて皆平等に、
重なるように倒れ、
息を引き取っていた。

ふ、と。
何か魂のようなものを含有した吐息が、
抜ける。

抜け殻のようになる。

もつれるように、
倒れこむように、
診療所を出る。

「第6層・第11採石場付き村落」は、
昨日の朝とまるで同じように、
渓谷の隙間より僅かに差す、
人工の光によって照らされていた。

街灯はついたまま。
あらゆる家の電灯がついたまま。

夜のまま。
時を止められたようにして。

ただ、呼吸を止めている。

「あぁ―――――、」

扉を探す。開ける。探る。死体を確認する。死因を特定する。
扉を探す。開ける。探る。死体を確認する。死因を特定する。
扉を探す。開ける。探る。死体を確認する。死因を特定する。
扉を探す。開ける。探る。死体を確認する。死因を特定する。
扉を探す。開ける。探る。死体を確認する。死因を特定する。
扉を探す。開ける。探る。死体を確認する。死因を特定する。

七件目の家屋のドアの前で、
ルイゼットは堪らずしゃがみ込んだ。

顔を伏せる、
涙なのか、汗なのか、
最早わからないものが、
止め処なく路地に落ちていく。

悲しみを通り越して、
ただ空虚な驚きだけが、
額に滲み、
鼻を伝い、
口元から、垂れる。

理屈だけは分かる。
ディエクスの恩寵は「適応力」だ。

私は、「適応」してしまった。

「誰か…」

みんなと同じ場所に逝く機会を逸してしまった。
謝罪する機会を失ってしまった。
信頼を裏切ったままにしてしまった。

「誰か!」

声を挙げてから驚いた。
自分は体に、そんな感情的な命令を下していない。

「誰か!」

ダメだ。
脳と身体が、同期を解いている。
完全に別離している。

喚き散らして駆け出した。
だって何処を見ても、死体以外のものが見つからない。

戻ってきた診療所の前に、
二つの死体がある。

先ほどは見逃した二つの死体。
母親と、それに抱かれるようにした子。

死体の状態からして、
やめろ、
子が先に死んだのだろう、
やめろ、
母は一度家に戻った後に、
やめろ、
呼吸の止まった子を連れて、
やめろ、
診療所までやってきたのだ。
やめろ。

眼を閉じろ、何も見るな、
瞼が落ちてくれない。
両手で顔を覆え、死体を見るな、
指が閉じてくれない。
この馬鹿げた夢から覚めろ、
脳が思考を止めてくれない。
いますぐ己の眼を潰せ、
最早肉体のどれもが自由にならない。

人のそれとも、獣のそれともよく似た、
叫び声のような、嗚咽のような、鳴き声のようなものをあげた。

喜びにも似た、
悲しみにも似た、
怒りにも似た慟哭をあげた。

そのどれもが不適切なものであり、
何を以てしても、その感情を表現することは叶わなかった。

===

やがて、全ての感情が化石になるほどに時間が経過した後、
ルイゼットは診療所を後に、まるで幽鬼のような足取りで歩き出した。

いや、
「まるで」とか、
「ような」ではない。

死に損なった、幽(かす)かな鬼。

膝を引きずり、自らを嘲るように笑って彷徨うその姿は、
最早この世のものではなく、
それを俯瞰的に眺めるような錯覚を得ながら、彼女は心に強く念じていた。

―――探さねば。

こうなった原因を、探して、特定する。

見つけて、治(ころ)さねば。

人のせいなら、

そいつを治(ころ)さねば。

これが、神の気まぐれだ、

と云うのなら、

神を治(ころ)さねば。