「先生! うちの…」
息子が、
と、続けようとして、
診療所に駆け込んだ母親は絶句した。
「同じ」だ。
エントランスに敷かれた毛布の上で、
寝静まるようにして横になった人々、
その顔色は仄白く、
まるで月明りに照らされているようであった。
それは唐突に倒れた、自分の息子と「同じ」―――。
看護師の一人が母親に駆け寄った。
そして、医療従事者にあるまじき、震え、脅えた様相で状況を伝える。
「先生は今、重篤な患者さんの施術中です、お待ちください!
しばらく、お待たせしてしまうことになりますが…!」
看護師はほとんどパニックを起こしており、
それは、臨時の病室となったエントランスを駆け回る、数人の人々らも同じ様子だった。
「こんな小さな、外界から隔絶された小さな村で」
「どうしてこんな流行り病が」
そんな、村全体が、既に異様な恐慌状態にあるさなか、
まさに今、村唯一の医療施設、その施術室において、
「最初の死者」が出た。
医師ルイゼットは深く震えるように息をつき、
緩やかに、もたつきながら手袋を外す。
―――ダメだった。
可能な限りの手を尽くした。
病理は間違いなく特定できた。
対処療法も完璧にやった。
しかし―――。
村でただ一人の女医は、その両手で、覆うようにして両頬を押さえた。
凍てついた指先と、火照った頬の温度差。
震えが止まらない。歯が鳴るのを止められない。
これは「自分の管轄」ではない。
こんなものが、流行り病であるものか。
こんなものに、
手の打ちようなどあるものか。
「先生、患者さんが!」
施術室の外から、
悲鳴によく似た呼びかけが聞こえる。
待っているのだ。
同じ症状を持った患者たちが。
しかし彼らに、一体どう伝えればいい?
いっそ正直に話すか?
あなたたちが助かる可能性は0に近い、と。
その死因は「アレルギー」だ、と。
馬鹿馬鹿しい、馬鹿馬鹿しい。
誰が納得する?
いいや、そもそも、「誰かが生き残る」のか…?
死因は、急激なアレルギー反応、
それに由来する、呼吸器をはじめとした多臓器不全。
被害者は「何か」…己にとって致命的な害となるものを吸引したのだ。
それは、外界から隔絶されたこの村にあって、
他の多くの者が同様に吸引し得るものであって、
つい先日まで、全くの無害であったもの。
伝えるか?
通常の対処療法では、間に合うわけがないことを。
投薬や施術では、根本的な解決にならないことを。
病名は、「致死性の大気(タイド)アレルギー」であることを。
…理論上、誰も逃れる術がないことを。
「先生…施術の方は?」
「―――継続中だ。
―――、」
エントランスに戻ったルイゼットの姿に、
多くの患者たちが、視線を送っている。
今にも倒れそうな程に苦悶の表情を浮かべた若者も、
呼吸の弱った我が子の頭を撫でる母親も、
看護師たちも。
誰一人として声を挙げることはない。
誰一人として、彼女の言動を妨げようとしない。
重い「信頼」があった。
辺境の大沼地から流れ着いて、
この村に診療所を構えて10年。10年だ。
村に蔓延ったあらゆる病理と闘い、
その度に死力を尽くした。
そして多くの命を救った。
「奇跡」と謳われるような施術を以て。
だから大丈夫。
今度もきっと、先生が治してくれる。
邪魔をしてはいけない。
我先に求めてはいけない。
先生の判断はきっと正しい。
先生の判断に従おう。
村の総意が、
重篤な眼差しとなってルイゼットに刺さる。
そして看護婦長が控えめに、
短く尋ねる。
「先生、どうしますか?」
―――ダメだ。言えるわけがない。
「―――みんな、
明日まで症状が続くようなら、また来なさい。
今日は奥で、特に症状の深刻な者に、夜通しで施術を行わねばならない。
施術室を除いて、院内は自由に使っていい。
症状のある者は、少しでも体を休めなさい。」
ルイゼットの言葉を受けて、
村人たちはそれぞれに頷いた。
それが正しい対処であると、
信じたのだ。
重い体を起こして、家に帰る者。
既に歩く体力も失い、エントランスで項垂れる者。
そして、看護師の中にも、とうとう呼吸を乱して、横になる者が現れ始めた。
ルイゼットはたった一人、
死体の置かれた施術室で、扉を背にして座り込んだ。
あとで、謝らなくちゃな。
もちろん、あの世で。
自らを信頼する村人たちに嘘をつき、
己もまた、這い寄る死の足音を聞きながら、
しかしルイゼットは、落ち着いていた。
カルテの裏に、ペンを走らせる。
まさか、
こんな「どうしようもない」事態に急襲されて、
この村の寿命が尽きるとは思っていなかった。
だが、まぁ、この村にただ独りの医師として、
せめて遺さねばならないだろう。
どのような事が起きて、
どのように我々は死んだのか。
ディエクスの流儀に従い、
後の世の発展のために。
「X月X日、
何らかの理由によって、今日、
この第6層、第11採石場付き村落の大気(タイド)は、
人体にとって、致命的に有害なものへと変じた。」
理由は不明、
あまりにも急激な変容だった。
とはいえ、私が以前より感じていた危うさは、
ちょうど、このような事態を予期していたものかも知れない。
龍脈(タイド)。
時に渓谷であり、時に山脈であり、時にオーロラである不明の奔流。
時に人体組成、時に知識や記憶にさえ後天的な影響を与えるもの。
人類にとって未知なるもの。
それらが機嫌を損ねた時、
どんな事態が起こるかなんて、誰にも分かりはしない。
この事象が、この村だけに起きていることなのか、
それともディエクス全域、あるいは世界中で起きているのか。
それを確かめることもできない。
もう手遅れだ。
指先をちくりと刺すような感覚。
続いて、胸元を締め上げるような息苦しさ、
指の先から始まる、痛みを伴った痺れ。
最初の患者と、同じ症状が始まった。
あちらに着いたら、まず偽ったことを謝ろう。
そして非力を詫びよう。
どうしようもなかったことを伝えよう。
それから、今までのありがとう、も。
意識は遠のき、
手放されていく。
そして―――、
次に眼を覚ました時、
ルイゼットは変わらず、施術室の扉に背を預けたままでいた。
跳ねるように立ち上がり、
口元を抑える。
呼吸ができている。正常だ。
平熱。気だるさはあるが、それ以外に目立った症状はない。
いっそ全てが夢であれ、と願うも、
施術室に置かれたままの死体が、それを否定する。
ただ、それでも、
―――最悪は免れた!
ルイゼットはそう確信して、施術室から飛び出した。
「おい、誰か!」
そしてエントランスに戻り、
見る。
まるで「死神の轍」だ。
老若男女。
症状に重いも軽いもない。
並べて皆平等に、
重なるように倒れ、
息を引き取っていた。
ふ、と。
何か魂のようなものを含有した吐息が、
抜ける。
抜け殻のようになる。
もつれるように、
倒れこむように、
診療所を出る。
「第6層・第11採石場付き村落」は、
昨日の朝とまるで同じように、
渓谷の隙間より僅かに差す、
人工の光によって照らされていた。
街灯はついたまま。
あらゆる家の電灯がついたまま。
夜のまま。
時を止められたようにして。
ただ、呼吸を止めている。
「あぁ―――――、」
扉を探す。開ける。探る。死体を確認する。死因を特定する。
扉を探す。開ける。探る。死体を確認する。死因を特定する。
扉を探す。開ける。探る。死体を確認する。死因を特定する。
扉を探す。開ける。探る。死体を確認する。死因を特定する。
扉を探す。開ける。探る。死体を確認する。死因を特定する。
扉を探す。開ける。探る。死体を確認する。死因を特定する。
七件目の家屋のドアの前で、
ルイゼットは堪らずしゃがみ込んだ。
顔を伏せる、
涙なのか、汗なのか、
最早わからないものが、
止め処なく路地に落ちていく。
悲しみを通り越して、
ただ空虚な驚きだけが、
額に滲み、
鼻を伝い、
口元から、垂れる。
理屈だけは分かる。
ディエクスの恩寵は「適応力」だ。
私は、「適応」してしまった。
「誰か…」
みんなと同じ場所に逝く機会を逸してしまった。
謝罪する機会を失ってしまった。
信頼を裏切ったままにしてしまった。
「誰か!」
声を挙げてから驚いた。
自分は体に、そんな感情的な命令を下していない。
「誰か!」
ダメだ。
脳と身体が、同期を解いている。
完全に別離している。
喚き散らして駆け出した。
だって何処を見ても、死体以外のものが見つからない。
戻ってきた診療所の前に、
二つの死体がある。
先ほどは見逃した二つの死体。
母親と、それに抱かれるようにした子。
死体の状態からして、
やめろ、
子が先に死んだのだろう、
やめろ、
母は一度家に戻った後に、
やめろ、
呼吸の止まった子を連れて、
やめろ、
診療所までやってきたのだ。
やめろ。
眼を閉じろ、何も見るな、
瞼が落ちてくれない。
両手で顔を覆え、死体を見るな、
指が閉じてくれない。
この馬鹿げた夢から覚めろ、
脳が思考を止めてくれない。
いますぐ己の眼を潰せ、
最早肉体のどれもが自由にならない。
人のそれとも、獣のそれともよく似た、
叫び声のような、嗚咽のような、鳴き声のようなものをあげた。
喜びにも似た、
悲しみにも似た、
怒りにも似た慟哭をあげた。
そのどれもが不適切なものであり、
何を以てしても、その感情を表現することは叶わなかった。
===
やがて、全ての感情が化石になるほどに時間が経過した後、
ルイゼットは診療所を後に、まるで幽鬼のような足取りで歩き出した。
いや、
「まるで」とか、
「ような」ではない。
死に損なった、幽(かす)かな鬼。
膝を引きずり、自らを嘲るように笑って彷徨うその姿は、
最早この世のものではなく、
それを俯瞰的に眺めるような錯覚を得ながら、彼女は心に強く念じていた。
―――探さねば。
こうなった原因を、探して、特定する。
見つけて、治(ころ)さねば。
人のせいなら、
そいつを治(ころ)さねば。
これが、神の気まぐれだ、
と云うのなら、
神を治(ころ)さねば。