「大変容」が訪れた。
絶望と叫喚、畏れと嘆きが王国を駆け巡り、
老若と男女、聖者と罪人の区別なく、
鏖殺の海嘯が全てを押し流した。
王都は、新鮮で瑞々しい「死のるつぼ」と化した。
しかしその中で、一人の少女を抱きかかえ、
死の渦さえ祓うほど清らかに、高らかに説く者の姿があった。
周囲には人々が、まるで花弁のように連なって彼女を囲んでいる。
その光景を、まま切り取れば「救済の花」と題される絵画にさえなるだろう。
「瞳を閉じ、風が吹き止むのを待ちましょう。
これもまた、母なるタイドからの「授かり」に他なりません。
今、自らの脚で地に立つ者らよ、あなた方は選ばれたのです。
次代の王として遣わされた、ルーセント様による治世、
その始まりにあって既に救われたのです。
祈りましょう。風が全てを過去にします。
その後に立つあなた方は、次代千年の栄光を生きる、選ばれた子らなのです。」
その姿は、惨き死の渦中にあって清廉であり、また潔白であった。
人々は、彼女の姿に覚えを見る。
それはかつて、教団によって裁かれた罪人と共に、
流刑の地へと堕ちた悲劇の聖女。
彼女に抱かれた少女が、力無く指を伸ばす。
その衣には月の紋章がある。
聖歌隊の一員だったのだろう。
少女の青褪めた指先に、アンジェラの指先が重ねられた。
少女は寒さに震えているのではない。
少女の末端には、既に血が通っていないのだ。
アンジェラはそんな少女を、まるで我が子にするかのように優しく抱きしめる。
「すぐに終わるわ。瞳を閉じて。
お月さまが見える? それをゆっくり目で追うの。
…お月さまが欠けていくわ。ゆっくり、ゆっくり。」
苦しそうに息を荒げていた少女の鼓動が、
アンジェラの腕の中で静まっていく。
「…目が覚めたら、明日が来るわ。」
そして周囲の人々が見守る中、少女は息を引き取った。
それは、王都の大変容における、最期の死者だった。
「さあ、風は過ぎ去りました。聖別は為されたのです。
立ち上がりましょう。私たちは立たなくてはなりません。
共に新たな王の下で、千年の栄華のために生きましょう。
そのためにわたくしは、あの最果てより戻ってきたのです。
わたくしの名を、都に残る全ての者に聞かせなさい。
道に迷える全ての者は、わたくしを訪ねなさい。
わたくしは新たな王に仕える者、名をアンジェラと申します。」
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「生きることに、どうして罪などありましょうか。
ならば、死すことにもまた同じです。
生きるあなたと、死した彼らとを分けるものはありません。
であればこそ、いま生きているあなたにしかできないことをしましょう。
共に祈ってください。
死した者たちのため、そして、未来へと生きていく、自分たちのために。」
取り繕った激励の言葉は、信徒たちの心によく突き刺さった。
鋭利に研ぎ澄ませた優しい言葉。まるで、神話を騙る「蛇」の牙。
「大変容」による損害は、月の教団の信徒たちにとっても深刻なものであったようだ。
ルーセント様のもたらした破滅は「力無き者」の一切に対して平等だった。
なにせ教団の上層部にあって、その秘奥を知る者でさえ、その半数は死に絶えたのだから。
造物主とは常に、被造物によって脅かされるもの。
それでも「根本からの壊滅」には至らなかったという点で、この「月の教団」という組織は強靭だ。
ただ「独り」でも、その秘奥を知る者が残れば、やがて再起を果たすのだろう。
彼らが、智慧と技術のヴェールで隠したその向こうに、主神なく、教義なき教団の「目的」がある限り。
そして、その「独り」になることが、私の最終的な目的だった。
教団は実行力強化のために、新たな手駒、新たな象徴、新たな偶像を必要としていたのだろう。
―――私の資質は完璧だ。
するりと、溶け込むかのように、彼らの懐に滑り込んだ。
奇跡的なタイミングで流刑地からの生還し、死地における言葉で民草に希望を与え、
そして新たな王であるルーセント様と同じ白銀の髪を持つ乙女。
私の激励は多くの信徒を救い、また信徒でない者も、心の安寧を求めて私を頼った。
あの大きな災害の痕にあって、王都における教団勢力は「比率」だけで言うならば過去最大になった。
すべて、私の「成果」だ。
人々は私を、新時代の象徴であると幻覚し、私の発言力は勝手に膨らんでいった。
私の牙は、私でさえ知らぬ間に、教団の深部へと勝手に喰い込んでいった。
曰く、白銀の聖女だと言う。なんて馬鹿馬鹿しくも利便性に長けた言葉だろう。
私は、教団幹部の中でも一等の部屋を与えられ、
こうして王宮の窓辺から、死都にあえぐ人々を見下ろしている。
彼らを「愚か」だとは思うまい。彼らの救いになることは、私にとっても本望だ。
世界に満ちる苦しみなんて、少ない方がいいに決まっている。
だが、あの程度の「戯言(たわごと)」を、彼等が「救い」だと幻覚するのなら、
それはそれで、空しいことだ。
―――そして、こんな月夜の晩には、今でも時々、生き別れた妹のことを思い出す。
都で暮らしていた頃は、ほんとうに健やかだった、少し生意気な、私の妹。
…アリシア、あの災厄を生き延びていれば、
あなたも今、こうして同じ月を眺めているのかしら。
あなたに、父さんや母さんでさえ知らなかった「毒石を識る才能」があったように、
私にも、あったみたい。
「他者を誑かし、謀りにかけ、狂奔させる才能」―――が。
私はこの力を、私の運命のために使いましょう。
私自身が授かるべきだった罪を、代わってくださった天使さまのために。
あの方がいらしたから、私は、身も心も清らかなまま、今日を生きていられる。
だから私は、報いなければならない。
可哀想なあの方。
世俗の都合で生み出され、運命に玩弄され、
傀儡の王として頂かれながら、なぜ誰を憎もうともしないのでしょう。
それは怒りさえも知らぬから? いいえ。
それはきっと、お優しいから。
自らの腕の中で、愛する人を喪った、その痛苦。
私は、凡百の民を慰める言葉は持てど、
彼の悲しみを癒す術を知らない。
―――だからアリシア、私は決めたわ。
私の生涯が、彼の暴力によって救われたように、
私も、彼の罪を代わることで、あの悲しみから救ってみせる。
そして、私は今度こそ「蛇」になる。
それはきっと「正しいこと」なのよ。