■ハイネ - 02「殺人猫、正道を歩む」


■ハイネ - 02「殺人猫、正道を歩む」

「大変容」によって、死の渦巻いた王都の道を、一匹の猫が歩いている。
その姿に、かつてのようなみすぼらしさ、衰死の気配はない。
いや、むしろ今、王都にあって最も壮健な者こそが彼だろう。

彼の名はハイネ…なのだが、彼はこの名前が、どのようにして授けられたのかを覚えていない。
彼は、炉端に転がるエスティア人の少年を見つけ、ふと足を止めた。
既に息はない。かつて眼が腐るほどに視た、哀れな弱者の末路である。

伝え聞く限りでは、この都の「王」と呼ばれる人物が、この「聖別」を為したらしい。
なるほど、この有様を見れば分かる。
「弱者と強者」をふるい分けるために、決定的な何かが行われたのだ。

この世界には「タイド適性」と呼ばれる、一元的な才覚が存在する。
それに優れる者ほど強く、評価され、それに劣る者ほど弱く、疎まれる。
優れるほどに死に辛く、劣るほどに死に易い。

―――ところが、これはどういうことだろうか。
この少年が死んで、おれが死なない理由が、分からない。

おれは弱い。
ヒトの群れの中で、恐らく最弱に近い部類だ。
そして「タイド」、という言葉こそ知っているものの。
生まれてから今日まで、その「タイド」とやらを身近に感じたことは、一度もない。

通説的に、エスティア人は俊敏であるという。
中でも、おれのように小さな獣耳を持つ種族は、特に耳が利き、気配に敏感で、高低差に強い、のだと。
しかし、おれにそのような特性はない。

闇夜に眼を凝らし、耳をそばだて、様々なトラップを用いなければ、
接近するただの一人にも気づけない。
高い場所にはよじ登らなければならないし、高い場所からは慎重に降りなければならない。

皆が共通して持つという特性が、タイドによって育まれているものだというのなら。
おれにタイドの加護はない。

…だというのに、おれがこの死都で、生きている理由はなんだ?

だが「強弱」に関わらず、腹は減るものだ。
例えば、あそこに転がっているヒトを喰えば、この渇きは収まるだろう。
誰かを見つけ、その寝床を襲い、食料を奪うのもいい。

だが、おれはそうしない。

奪うこと、殺めることは、ヒトの正道から自身を遠ざける行為。
権威から遠ざかる行為。己を「死にやすくする」行為だ。
逆に、ヒトの正道を歩むことによって、自ずと力は手に入る。
「死ににくい生き物」として成長できる。

あの教皇がそうであるように。
物語の中に見た全ての人物が、そうであったように。
正道を歩むことだけが、自らの命を永らえる術なのだ。

ならば、この空腹でさえ心地よい。

―――だからおれに、もう「殺し」をさせないで欲しい。

ハイネは唐突にその場から駆け出し、
彼を尾行していた者らを視線を釘付けにした。

かつての王都には「路地裏の辻」と呼ぶほどに不明瞭な領域は存在しなかった。
あまねく領地の全てを月と太陽が交互に照らし、ヒトの安全は、王によって保証されていた。

しかし、今となって、この死都では違う。

ほんのひとつ、道を外れて家屋の隙間を抜ければ、
そこは死屍が累々する、安全とは程遠い場所だ。

遺棄された無数の屍が、
積み重なって瘴気を放つ。
常人を遠ざけるそのカーテンが、
逆に悪しきものを引き寄せる。

ゆえにハイネは、「彼ら」と相対する時、戦いの場には路地裏を選んだ。
「正道を歩む清浄な人々に、自分の邪悪な行いを見せてはならない」という配慮からだ。
「彼ら」は、かつてハイネに狩猟を斡旋していた、さる富豪の私兵たちである。

貧民街を出るために資金を溜め、やがて富豪の下を去ろうとした時、
富豪は、ハイネを脅かしつけた。

「後ろ盾のない殺人鬼に、もはや行く場所など無い」と。

当然それは、ハイネという優秀な掃除屋を失いたくない、という本意の包み隠しである。

ハイネは獣ではあるが、それゆえに自らによって自らを律するもの。
富豪の言葉に力はなく、ハイネは彼の下を去った。

そして、その日の夜に襲われた。
ハイネと同じように、富豪に飼い慣らされていた人狩りの獣たち。
それらを全て片付けたハイネは、富豪の行いに驚き、悲しんだ。

あの富豪には恩義があった。
自らを死地から拾い上げ、仕事を与え、教育まで施してくれた。
お互いに必要とし合い、支え合っていた。
信頼があったはずだった。

幻、だったのだろうか。
彼は、正道を歩むものではなかった…のかも知れない。

ああ、だから、と。
ハイネは得心した。

ハイネは、暗殺者たちを返り討ちにした、その血も乾かないうちに、
富豪の屋敷へと飛んで戻り、その手で彼の首を締めて殺した。

―――だから、こうしてお前は死ぬのか。

やはり正道だ。正道を歩まない者は死ぬ。
おれの命を脅かすから、おれによって殺される。

ハイネはひとつの啓蒙を得て、
富豪の屋敷を後にした。

彼の私財を盗んでいくことも可能だったが、それはしなかった。
それは正道に背く行為。
金のために殺したのではない、自らの命を守るために殺したのだ。

やがて、育ての親に等しい富豪を絞め殺した手の感触は、ハイネの誇りになった。

ただ、彼がひとつ間違えたことと言えば、
富豪の手下、加えて家族を見逃したことである。
自らの命を長期的に永らえさせるためならば、
彼は禍根を残すべきではなかった。

その失敗を引きずるように、
今日もハイネは、人狩りの獣たちに追われている。

彼らを殺すことは容易い。
彼らは強く、素早く、そして賢い者たちだ。
タイドを傍に感じ、その力を使いこなす者たち。

だからこそ容易い。
力あるものは力を振るう。
素早きものは素早さを活かす。
賢きものは、小賢しく立ち回ろうとする。

予知された未来ほど、
噛みつきやすいものはない。

ハイネは、タイドに見放されていたがゆえに、
彼らの裏をかき続けることができた。
そして、彼らの死を悼むことはしなかった。

「全てのヒトは、自らによって自らを律している」と。
「彼らは、自らの意志によって殺されに来ている」と。
思い込んでいたからだ。

そしてその日、
路地裏での殺人を終えて、死都の明るみへと歩み出たハイネの背を、
何か薄暗く、冷たい、薄氷のようなものが滑った。

かつての、路地裏での記憶が蘇る。

ハイネが見下していた、ヒトあらざる獣の中でも、
もっとも強く、もっとも素早く、もっとも狡猾な、
「手足のない獣」。

それに噛まれた日のことを、
ハイネは生涯、忘れることがないだろう。

全身の血を灼くような痛み、死に瀕する恐怖を与えられ、
そして結局、その獣を二度と見ること、狩ることはできなかった。

ハイネは後に、その獣の名が「蛇」であることを知り、
実在しないことを聞かされる、が。
それは到底、信じられたものではなかった。
だってハイネは二度、たしかに「それ」に出会っている。

一度目は、あの路地裏。
そして二度目がこの時。

その手に、命の対価である「金貨」をちらつかせ、
値定めるようにハイネの瞳を覗き込む、
白銀の髪を持った女。

『あなたに、丁度よい「お仕事」があるのですが』

ああ、「これ」に逆らうべきではない、と。
告げる本能に従って、ハイネは口を開いた。

「…いいよ。
 おれには、なにかを狩ることくらいしか、できないけど」

その答えに、蛇は満足げに笑う。

「大変容」が過ぎ去った死の都を統べる、新たなる王と、その配下たる教団。
後に「王の弓」として語られる騎士、ハイネの「正道を巡る戦い」は、この日を境に始まった。