■アンジェラ - 03「嘘月」


カチ、コチ、カチ、と、
銀の秒針が室内の時を刻む。

月夜の晩、暗がりの豪奢な部屋、そのソファに座り、
机を挟んで対面した二人の聖職者がいる。

両者を照らすものは、庭園へと続く大窓から差し込む、月明りのみ。
だが、それでも十分な明度があった。
「大変容」によって煌きを増した月光の照らしは、世界から夜を奪い去った。

まるで幻想的な、あたかも神秘的な。
荘厳で、示威的で、堅牢な。

まさに「王の宮」と呼ぶべき威容を備えた、この建築物―――、
だが、アンジェラは既に、この建物が本来の意味における「王宮」ではないことを知っている。

「王の居城」という意味では正しい。しかし同時に、そこは教団の本部でもあり、
その地下には広大な施設を持ち、タイドの複製、研究が行われているのだ。
教団の上層部が「斜陽の塔」と呼ぶその「遺跡」は、その大半が地中に埋まっている。

恰幅の良い男が口を開いた。

「貴女は実によくやってくださっている、聖女殿。
 あの変容の後、教団が未だにこれだけの権勢を維持していられるのは、まったく貴女のお陰です。」

『…いいえ、司教猊下。
 私の助力など僅かばかりのもの。
 世界はやはり、タイドによって生かされているのです。
 命を握るものこそ、真に尊しと賛意を集めるのですわ。』

「…謙虚も、また美徳ですな。それで?」

司教と呼ばれた男はソファに腰かけたまま、手にした葉巻に火をつける。

『それで、と申しますと?』

「いやいや、聖女殿。こんな夜更けに、人払いまでしていらしたのだ。
 私とて、衆愚の一部ではありませんよ。
 昨今の貴女のご活躍を見れば瞭然だ。あなたは求めてらっしゃる。
 教団の秘奥を。真実を。そうですな?」

鼻に含んだ煙を吐き出しながら、男はアンジェラの眼を覗き込こむように見た。
その視線を外しながら、アンジェラは自らの唇に触れる。

『…さあ、何のことだか、わかりませんわ。
 わたくし、ただ猊下に会いたくて、会いに来ただけですのよ。』

あまりに空々しい返事だった。

「まあ、いいでしょう。
 こちらも、そろそろ伺おうと思っていたのです。
 アンジェラ。あなたの覚悟を問うためにね。」

一方で男の方も、ある種の芝居がかった、
勿体つけたような調子で語り始める。

「もうご存知だとは思いますがね。
 我々は、ある変革をもたらさねばならない。

 月の教団に厳格な教義はありません。
 だが、教団という以上は、教えを伝え、守らねばならない。
 では、我々に賜わされた「教え」とは一体何か?」

『星の復元、という言葉は存じております。』

「おお。耳が早い。
 まさしくその通り。我々にも「神」はいるのです。
 タイドなどという、偽りのものではなくてね。
 それは我々の脳裏に住んでいる。
 アイエンティのタイドは、はじめに「大目的」を我々に授けた。
 それは、遥か遠き我らが故郷を、この大地の上に再び降臨させることだ。」

『そのためには、斜陽の塔を完全に制御せねばならない、とか。』

「いかにも。」

『そのためには、「完全な操縦者」を生み出す必要がある、とか。』

「その通り。」

『そのためには、王から実験データを取り続けなければならない、とか。』

「いや全く、あなたの情報網には恐れ入ります、聖女殿。
 一体どのようにしてそれだけの手管を? いささかの…戦慄さえ覚えますな。
 では、他に何を知りたいと言うのです?」

心底からわからない、という様子で、男は幅広な肩をすくめる。
それに対して、アンジェラの言葉は穏やかで、そして行動は一瞬だった。

『いいえ、猊下。先ほどから言っているじゃありませんか。
 私は、あなたに会いにきたくて、来たのです。
 ですからこうして―――、』

大司教。男の名はグレゴリウスという。
彼とて、長く教団に仕え、そして大変容を生き延びた一角の人物である。
一種の安全装置(フェイルセーフ)として機能していた、と言ってもいいだろう。
教団の秘儀に対して、力任せに迫る者があれば、
それを排斥してきたのが彼だ。

その、グレゴリウスの胸にねじ込まれたナイフが、
カチ、コチ、と筋の千切れるような音を鳴らす。

机の上に片膝を置き、
彼の胸へとまっすぐに腕を伸ばしたアンジェラを姿を、
差し込んだ月光が一層に眩く照らした。

口元から、声にならぬ声と、血のあぶくを零して狼狽える男の手から、
火を宿したままの煙草が、ぽとりと落ちる。

『ですからこうして―――お命を頂いたのです。
 皆様のところを回っておりますのよ。』

速過ぎる、と、グレゴリウスは思った。
自らの死期についてではない。
アンジェラの初動についてだ。

戦地において、彼は自らの死を幻視することがままあった。
いずれも相手は、歴戦の勇士だった。
しかし、実際に今、「自らの死」と直面した、その最期の一瞬。

その幻覚さえ見えなかったことが、彼に恐怖を与えた。
自らは、このような「か細い女」に暗殺されるほどの、井の中の蛙だった、のだろうか?

―――違う。断じて違う。
この女は―――、
この女が「速かった」―――!

『猊下、これよりは、このアンジェラが教団を守りましょう。
 そのために「あるもの」を引き継がなければなりません。
 斜陽の塔の第四セクター以降に入場するためには、
 あなたの「お顔」が必要だ、と、聞き及んでおります。』

過剰に吸い込まれた息が、もはや死に体の男の喉を鳴らす。
心臓を刃によって鷲掴みにされ、もはや一息を吐き出すことさえままならぬほどに麻痺している。
―――「死」だ。「終わり」がきた。

『ご安心ください猊下。星の復元、素晴らしい計画だと思います。
 それは滞りなく施行されましょう。「我が王」がそれを望むのならば…。』

痛苦と恐怖に、顔面をくしゃくしゃにした男を差し置き、
ナイフを手放したアンジェラはソファの裏へと回る。
くるりと回したその手には、新たに二振りの、大型の包丁のような武器が握られていた。
彼女はそれを交差させて、背後から、彼の首元に、まるで鋏のようにして、あてる。

『あまり強張らないでくださいね。
 人相が変わってしまったら、たいへんだわ。』

そして双つの白銀が弧を描き、
ごとん、という音が部屋に響いた。

司教グレゴリウスの首が床に落ち、その意識が途絶える瞬間。
彼が最期に考えていたことは、

「アンジェラが、如何なる経験を経て、ここに立っているのか」

ということだった。

―――無限の死地を歩んで? 数多のヒトを手にかけて?
そうでなくてはならない。
そうでなければおかしい。
でなければ、このように「手慣れる」ワケがない。
自らの不覚を、ただの一瞬で鷲掴みにして殺す、そんなモノ、一体どれほどの、どのような―――。

勢いよく砂が流れるような音と共に。
赤黒い鮮血がアンジェラの全身に返り、その輪郭を際立たせる。
そして、その温かさが、彼女の心に安堵を与える。

―――上手にできた。
良かった。夜が明ける前に全てが済んで。

アンジェラが小さく鳴らした口笛に呼応して、顔を隠した二人の教団員が現れる。
彼らは素早く、つい先ほどまで司教だったものの頭部を白布で包み、それを持って部屋を出た。
そして部屋には、血に塗れた聖女ひとりが残った。

―――これで19人。全てこの手で葬り去った。
「教義」などという身勝手な理由であの方を鋳造し、謀り、利用し続けた者らを。
根こそぎに。きれいさっぱりにしてやった。

これで、教団は私のものだ。

なんて心地のよい月明りだろう。
私の手は今宵、あの方の為すべき「怒り」を代行した。
私はついに、自らの手によってルーセント様の罪を代わったのだ。

であれば、血に塗れたこの手の、なんと「正しき」ことか。

そして、この瞬間が始まりだ。
この世界を、あの方に献上するための計画を、
紡がなくてはならない。

アンジェラが薄笑う声を最期に、室内は静寂で満たされた。

秒針が止まる。
銀の寿命が、尽きる。