バラク象大公 - 「巨象大公」


エセンの北方は不毛の凍土だ。
季節を通じて止むことのない氷雪が、地表のあらゆる生命を虐げる。
訪れるには壮健であることが前提だ。そして生き延びるためには…強壮であることが好ましい。

それゆえ、そこに領地を持ちたがる騎士はおらず、同時に、最北の辺境である「山脈」に対する調査もまた、
永きに渡って、進捗を得られなかった。

「象大公」と称される貴族ハヌバル・バラクは、そんな状況を打開して、北方の開拓を成し遂げた一角の英雄である。
この人物の来歴には謎が多く「元より北の辺境より出でた者」とするような風説もある。
それでも、彼がエセンの中央議会において強い影響力を有しているのは、一重に彼の英雄性によるものだ。

豪雪のバラク。隻眼の雷神。巨象大公。影の君主。黒鉄の戦艦。彷徨う戦陣。
様々な異名が、彼の特異性を表している。

まず第一に、彼は巨大だ。比類するもののないほどに。
巨躯の貴族として名高き、あのフラー豪邸公でさえ、その身長は彼の「腰元」にさえ及ばない。
あらゆる人間が見上げるほどの、巨岩の如き黒鉄の体躯。
頭上から浴びせられる稲妻の如き怒号に、震えぬ者はまずいない。

そして第二。彼は北方に、定まった領地を持たない。
彼の敷く戦陣こそが彼の領地であり、彼に仕える騎士たちは、その巨影に沈み、浮上の時を待っている。
ひとたび戦が始まれば、彼らはバラクの影より駆け上がり、その武勇を惜しみなく披露する。
その様は、あたかも巨神の背より波立ち溢れる「剣の津波」とでも形容すべきもの。
見るもの全てに畏怖と畏敬を抱かせる、その戦姿はまさに、英雄と呼んで然るべきものである。

第三に、彼は極北の辺境「山脈」を、たった一人で踏破したことで知られている。
彼は、自らが持ち帰った成果のひとつである「エヴァネッセンス」と呼ばれる秘宝によって、
「辺境に奪われていた本来の力と記憶」を取り戻した、とされている。

第四に、彼は隻眼にして稲妻を操り…
第五に、彼はまるで怒れる凍土の化身であるかのように…
第六に、彼の志は自由にして清廉であり…

―――虚像大公。

ヘンリー・マクヴィーが辺境で感染した病原体「エヴァネッセンス」は、
罹患者の正体を隠匿し、罹患者に対する認識を、群衆にとって極めて好意的なものに改変する症状を持つ。

幼少より難病を抱え、痩躯に悩んだヘンリー公爵は、その解決を未知なる辺境に求めた。
そして辺境はそれに応え、ヘンリーは、彼に仕える多くの騎士たちの懸命と引き換えに、新たな病を手に入れたのだ。

力強く、逞しく、数多くの者に慕われ、あらゆる苦難苦境を退ける勇者。
いかなる難関であれど乗り越え、それが踏破不可能と謳われた山脈であれ、踏み越えて進む猛者。
かつて物語の内側に夢見た、偉大なる将軍の似姿。
彼はついに、それを手に入れた。

今や、北方に領地を構えていた貧弱な貴族のことなど、誰も覚えてはいない。

凍土を彷徨う戦の神、彼の名はバラク象大公。

とはいえ「エヴァネッセンス」が改変するのは、彼に対する「認識」だけだ。
全ての騎士と領地を喪い、勇ましき虚像のみを手に入れた彼に、為せることは何もない。

彼は、誰の記憶に留まることもなくなった痩躯を引きずり、やがて病によって朽ち果てるその時まで、
己の浅慮を呪い、悔恨を歌い、遥か北方の極地を彷徨い続ける。