数多くの騎士たちを狂わせた、恐るべき「辺境」の存在を前にして、
しかしその未知なる魅力に、冒険心をくすぐられない者はいないだろう。
…ところがどっこい、中にはいるもので、
それが「セイン正常伯」と呼ばれている人物である。
彼は、エセンブルク騎士団領が「進歩のために過剰なリソースを吐いているのではないか?」
といったような内容を、定期的に議題として挙げる。
「卿らがあの闇の中に、どのような輝きを求めて手を伸ばしているのか。
わしには理解できん。そも暗闇とは、"光源(きぼう)"を持たぬから暗闇なのだ。
明るく照らされた場所もある? 東の「時計塔」か?
馬鹿め、不老の薬だと? その妄執に囚われて何人の騎士が死んだ?
結局、成果はなにも無かったではないか。
南の「光の平原」だと? ならばお前の騎士団を調査に出すか?
賭けてもいいが、誰も戻ってこないぞ。アイアスの騎士団がそうであったようにな。
良いか諸君。今一度、人間一人の命を価値を考えるべき時なのだ。
私たちは滅亡することはない。それは間違いない。そしてそれは、辺境から持ち帰った成果のお陰だ。
それも認めよう。
だが、エセンブルクが存続すればそれでいいのか? 全てのものはその礎か?
私は人間だが、人類の奴隷ではない。私の領民もそうだ。騎士たちもだ。
無造作に、投げ打たれて良いものではない。
辺境などという暗黒に、送り出して良いものではないのだ。
卿らの愛する騎士たちが、それを自ら求めたとしても、だ。
その時、卿らが為すべきことは、その背を押すことではなく、
その無謀を咎めることなのだ。だって十中八九、帰っては来ないんだぞッ!?
千人に一人、英雄が現れて、何らかの成果を持ち帰ったとしよう。
だとして、それまでに死んだ九百九十九人は決して生き返らないのだ。
辺境が我々に、蘇生の奇跡をもたらしたことがあったか?
フラー公の話はせんでよい! あれを蘇りなどと、口が裂けてもわしは言わんぞ!
この一週間でフラーの騎士たちが、何度あの娘の頭を砕いているのか知っているのか!?
卿らは口を揃えて、何かを持ち帰ればそれを「成果」だと囃し立てるが、本当にそれだけか?
確かにオルドア伯はうまくやった。
あの辺境はほとんど完全に無力化され、もはや辺境ではなくなった、と言ってもいい。
だが、結局のところ彼女の祖母が持ち帰った"成果"は、三つの騎士領を壊滅させておるのだぞ?
死者4,600人の名を読み上げるか?
なあ卿らよ。卿らはそこまで、現状に不満があるのか?
民が生き、季節を回し、それぞれの領内に秩序が行き届いている。
それでも尚、進歩を求めるのか? 革新を? 卿らは何に辿り着こうとしているのだ?
…分かっている。わしにも分かっているとも。
そうすべきだ、ということは分かっている。
エセンは…我々の世界は、歪過ぎる。我々は、この地獄の「由来」を探り当てるべきだ。
しすて我々の根本が、辺境の秘奥…その先にあることくらい、わしにも分かる。
だが…籠の中の鳥でいることは、それほど不幸なことか?
愛する民や騎士に死地を歩ませ、絶望の中で落命させることが必要になるほど、
卿らはこの籠を出たいのか?
わしは…ごめんだ。ごめんだよ。
わしの騎士たちにも子がいる、孫を持つ者だっていた。
そういった者たちが、愛する者に囲まれて死ぬことができない、なんて、ひどいじゃないか。
わしは今一度、辺境調査の全面中止を提案するぞ。
我々は既に、今あるものを活用することで十分に、幸福に生きてゆける。
それを永遠に繰り返せば良いではないか。その中で、きっと答えが見つかるだろう。
いいや、わしが見つけてみせるとも。辺境などの力を借りずとも、論証し、実証して見せるわ。
だから止めるべきだ。もうあんな場所に行くのは止めるべきなんだ。
あの場所では全てが狂う。正常なことなど何ひとつない。
死は最悪の結末ではない。死は最悪の終わりではないのだ。
わしが今、こうしてここで、話していられるのはすべて、
すべて、その最悪の結末を、我が騎士たちに「代わってもらった」からだ、と、分かるのだ。
だというのに何故、どうしてわしは、
あれだけいた筈の、愛していた筈の騎士たちの名前と姿を思い出せんのだ!?
あの辺境はわしから何を奪った!? 何故わしの領土は、今や辺境と呼ばれているのだ!?
わしの頭からぽっかりと抜け落ちてしまった全てが、辺境から成果を持ち帰るための代償か!?
誰か…誰かわしの名を…教えてくれ…頼む…。」
以上のような言動を繰り返すこの人物が、
議会から正式に伯爵号を授かったという歴史的事実はない。
彼が「自分の領土」と呼んでいる場所に関しては、
およそ70年以上前から「8号辺境」として認知されていた場所であり、
彼がその場所の領主だった、という事実もない。
これらの言動から、一部の騎士たちからは「異常伯」
あるいは「狂った(インセイン)伯爵」と揶揄される人物ではあるが、
そのような人物が「なぜ議会での議題発案権を有しているのか」という問題については、未だ調査中である。