■アンジェラ - 04「暴力」


大理石で造られた巨大なエントランス。
「斜陽の塔」の頂上部へと続く、唯一の場所。

その場所に、雷鳴が木霊している。
二条の稲光が、天地を無限回に跳躍して駆けている。

剣の王、テレンス・シャパート。
王の剣、アンジェラ。

異界の叡智、狂奔の武勇が激突する、この斜陽の塔における数々の戦いと比較して尚、
この両者の戟合は、速度に優れ、威力に勝り、そして意志に満ちていた。

―――人狼テレンス。
東方建国の英雄にして、山脈の覇王。
いわば赤の龍脈「エスティア」の化身。

彼だ。

彼だけが、ルーセント様に届き得る牙を持つ。

だから彼だけは、ここで私が殺さねばならない。

だというのに―――、

疲弊から裏返った声で叫びたて、アンジェラが地を滑る。
その軌道は恐ろしく低い。蛇蝎の如き姿勢を維持した、しかし高速の、跳躍にも似た歩法。
二振りの人斬り包丁が地に擦れて火花の轍を敷き、まばたく合間にいくつもの弧月を描いて人狼に迫る。

が、そのいずれもが命中しない。
彼が鋼鉄の剣斧を一蹴する過程において、そのすべてが撃ち墜とされた。
ある撃は剣斧によって、またある撃は、彼自身の「拳」によって、である。

「見切った」と、一言にすれば易かろう行為だが、
この人狼を除いて、あらゆるヒトにそれをさせないだけの才気が、アンジェラにはあった。

あの夜、最初の教団員を殺めた時の甘い感触。
人殺しが、あまりにも「向いている」という直感と危惧。
やがて死者が19人になった時、はっきりと理解した。

知らぬ間に自らが賜っていた、ディエクスの暗き技法。アイエンティの悪しき叡智。

「学徒巫女(オラクル)」として自らが生まれ持った才能は、
人を謀ることではなく「殺人」にこそあったのだ、と、
アンジェラは理解していた、ハズだった、しかし―――。

テレンスという戦士は完全に、それらの能力を凌駕している。

あの執行者ルイゼットでさえ完全に圧倒して見せたアンジェラの戦闘適性を以てしても、
この獣には、ただの一太刀も届かないのだ。

瞬間、自らの頸椎が吹き飛んで消える未来を幻視し、
アンジェラは宙空を蹴って身を翻す。

吹き荒んだ剣斧による嵐が、
刹那の内にアンジェラの肉体を七つか八つにまで切断する。

予知にも近いその悪寒、アンジェラがそれに従っていなければ、
まさに「そう」なっていただろう。

アンジェラが、距離を取る最中に見た、人狼の逆手。
そこに握られていた片反りの刃に怖気が走る。

防御から始まった立ち合いの中で、腰元からあれを抜き、
こちらが離脱するまでの間に、乱撃に加える技術と速度。

自らの脚を引く重力に抗いながら、アンジェラの瞳が輝く。
薄暗い灰色の眼。その奥に、その奥で、その奥から。
沸々と沸いて沸騰する殺意が、涙のように零れて、空間に白銀の残光を引く。

―――やはりこいつだ。
こいつだけがルーセント様を殺し得る。

絶対に―――!

アンジェラが身を翻し、再び地を蹴った刹那、
血色に輝いた戦狼の眼光が、実態的な暴力となってアンジェラの足元をさらう。
地を踏み返す脚力と、注視を強制する目線の力のみで、
立ち合いのイニシアチブを強奪せんとする戦狼の妙技。

そして、それは空虚な脅しではない。
無策で踏み込めば、報復は死だ。

はっきりと匂い立つ死の色香。
過去にあってさえ、大変容にあってさえ、教団への離反にあってさえ、
あのルイゼットとかいう狂人と立ち合ってさえ、
決して幻覚したことのなかった自らの死が、今ここに、こんなにも色鮮やかに!

眼光を煌かせたテレンスの左眼があった場所を、
しかし、人斬り包丁が狂いなく貫いた。

圧倒的な死の気配と共に、討ち死にのリスクを叩きつける威嚇に対して、
決死の跳躍、致命傷を狙う反撃で圧し返す。
アンジェラの意志と力もまた、類稀なるものであった。

テレンスは内心で舌を打つ。
豊かな獣毛の下で冷汗さえかいた。

―――ああ、これはまずい、非常に。
全く加減のできる相手ではありません。この世界に、まだこのような戦士がいたとは。

ブラフを、力圧をかければかけるほどに、鋭く反発してくるあの気質。
それでいて冷静に反撃を警戒し、後退を選択することもできる。

そしてあの、直感に頼った粗削りな攻め。
であるが故に読み辛く、さらに「その手法」を彼女は信頼している。
自らの「才気」を理解し、器用に振り回している。

流派を持たないという利点。

視線や姿勢、気発の初動から動きを読ませず、しかも素早く、
ひとつの挙動の中で二回三回と、こちらの急所を刃の射程に収めてくる。
その上で「実行するかどうか」がほとんどランダムであるが故、守って損をするのはこちらばかり。
しかも、そこに気を回し過ぎれば、それだけ守りの精度が落ちる。

一方で彼女は、未来予知にも近い精度でその穴を突き、
気づけば最良手、あるいはそれに次ぐ致命手によって追い込みをかける。
これは、まったく、ええ。「天才」と呼ぶ他にありません。

称賛を。
あなたは「ヒト殺し」の天才だ。
しかし―――!

気づけば開いていた、三度目の戦端。
投擲された短刀が地面を跳ねる。

着弾地点は、テレンスの爪先を掠めるか否かの位置。
命中してもダメージはゼロに等しいその牽制。
一見して無意味、だからこそ有意義であるとテレンスは気づく。
アンジェラの天性を確信し、そしてそれを信頼したテレンスの剛拳が、
上空から振り抜かれて、跳躍してきたアンジェラの頭蓋へと堕ちる。

同時に、湿った破裂音と共に、テレンスの左背から夥しい量の血液が噴出する。

―――これまでの戟合、一〇数回。
そのいずれにおいても攻めに活用した人斬り包丁…「ではなく」!
今しがた地に放った、矮小極まる短刀を、追いかけるように飛び、
それを空中で握り直し、その挙動を追おうとした私の眼へ再び放つとは…!

テレンスの左胸を貫通し、背後へと抜けた、稲妻の如き衝撃の正体。
それは、テレンスの虚を衝き、アンジェラが両手で柄を握り固めた、人斬り包丁の刺突によるものだった。
刃は人狼の剛体に深々と突き刺さり、確かに心臓を貫通していた。
だが、アンジェラは既に、人狼の懐にはいない。

「御見事です。
 確かに、その細腕で私を打倒しようと…いえ「殺害」しようとするならば、
 急所へと、この武器を突きこむ他には、ありません…。

 …これまでの戟合を布石に、あの間合いと、下方向への私の視線を勝ち取り、
 それでいて自身はその裏を選び、十分な威力の攻撃を放った…。
 王の剣の名に恥じぬ、素晴らしい戦いでした、アンジェラ。」

土埃の中、大理石の柱に身を打ち付けられたアンジェラの全身が、
まるで口からそうするように、艶やかな血を流している。
定まらぬ視界の向こうに、人狼の立ち姿が浮かぶ。

―――化け物め。

そう口にしようとしたアンジェラは、
その代わりに、膨大な量の血を吐き出した。

視界が霞む。
感じたことのない熱が、粉々になった筋骨と、引き裂かれた内臓を駆け巡っている。

―――なにが、素晴らしい、たたかい、だ。
結局あなたは、倒れていないのに。

心臓に刃が喰い込む瞬間、血管を引き千切るその瞬間、
あまりにも空虚な手応えに、そのおぞましさに、身が竦んでしまった。
心臓を破壊した「程度」では、この怪物は止まらない。

そしてその「怯え」が、判断を竦ませた。
あと一瞬、一瞬だけ早く、柄から手を放して離れるべきだった。
心臓を突けば硬直がある、だなんて思い込み。
そんな一度の慢心が、私を殺すというのだから、馬鹿げている。

「あなたは、戦いの中で最善の手を選び尽くしたと、私は思います。
 それは、数多の戦士たちが望み、しかし辿り着けなかった―――、」

テレンスの称賛を遮り、アンジェラは感情的な言葉を発した。

『黙れ…!』

それは「未だ戦いは終わっていない」という意志の表明でもあった。
柱に打ち付けられた自らの肉体を、まるで不可視の腕で引きはがすようにして、
彼女はその身を、大理石の床へと投げ倒す。

薄く湿った音と共に、アンジェラの鮮血が床に延びる。
そして延びた先に、彼女が跳躍の前に投げ捨てた、もう一振りの人斬り包丁があった。
流血は、彼女の意志を体現するかのように、包丁の柄を濡らしていく。

聖女は、右腕のみに頼って地を這う。
自らの鮮血に塗れ、もはや死に体となったその様相で。
血流の先へと向かう。

人狼が、未だ動かないというのなら、その間に、
武器を手に、体勢を立て直す必要がある。

もう一度、同じスケールの攻撃は行えなくても、
それに類することを、しなければ、ならない。
対策を、対抗を、抵抗を、時間を、稼いで、そう、
そうしなければ、突破されてしまう。
突破されたら、この犬は、きっと彼を殺す。

「動け、…―――!」

止め処なく溢れ、
大理石の床を濡らす、
その透明な液体は、悔恨の涙だった。

暴力によって救われ、
暴力を信奉したアンジェラが末期に思ったことは、
なぜ、自分はこんなにも非力な存在なのか、という絶望だった。

―――私は間違えてばかり。
家族も、愛する人も、救うことができないまま、死ぬ。
ダメだ。それは全く「正しく」ない。
私はまだ、何も成し遂げていない。誰も救えていない。
あの人に、私だけが救ってもらっておいて、こんな―――!

獣の断末魔の如き声を挙げ、
アンジェラは自らの肉体を引きずり起こす。

その口に人斬り包丁を噛み咥え、
ハーネスの内側から小振りな短刀を抜き、
最早構えとも呼べないほどに崩れた立ち姿で、
人狼を睨視する。

聖女が立ち上がるまで、その様子を見守っていたテレンスは、
自らの胸に埋め込まれた刃を引き抜き、アンジェラの足元に放る。
その出血は、既に止まっていた。

「…あなたの忠誠に敬意を。
 アンジェラ、あなたは、私が出会った中でも最高の―――、」

告げようとしたテレンスの左側頭を、
稲妻の如き音が打ち据える。

「―――!」

テレンスが僅かによろめき、残った右眼を乱入者に向けた刹那、
アンジェラは、その攻撃の主が誰であるかも確かめないまま、自らの体を引き摺るようにして走り出した。

策がある訳ではない。
やりようを見出した訳でもない。
自分が、時を待たずして死ぬことも分かっている。

それでも足が体を運ぶ、
人狼が虚を見せた瞬間から、
意思と肉体がかけ離れて、アンジェラを何処かへ走らせている。

―――これは「正しい」こと…?

分からない。思考が、回らない。血が、足りていないからだ。
血が足りない?
あれだけ流したというのに、流させたというのに、これから流させるというのに。
まだ…?

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