結局、アンジェラは何処にも辿り着くことができなかった。
流した血が多すぎたのだ。「人狼」なる名の暴力に触れられた拳ひとつ。
それがアンジェラの生命を、永久に奪うことになった。
斜陽の塔の中腹、頂上には遠く及ばないその場所で、
アンジェラは力なく地に伏し、自らの白銀の髪が、粘りつく血液に穢されていくのを、
ただ眺めるばかりだった。
―――「正解」なんて、最初から何処にも無かったのかも知れない。
私は結局、何を選んだって、きっとここで死んでいただろう。
いずれにしたって、この「教団」に運命を絡めとられ、
そして、あの方に出会い、その悲運に心を打たれ、世界に引導を渡すために働き、
阻止されて死ぬ。
一本道だ。それ以外にない。
ああ、それは、たいへんに、口惜しいことではあるが、同時に。
ふ、と。
自らの唇から、鮮血の代わりに漏れた音に耳を澄ます。
それは、もう何年も聞いていなかった、自らの感情だ。
笑っているのだ。死に瀕して。
自らの命運が、やがて必ず、あの「月の王子」に紐づくことに気づいて。
なら、そう悪くない死に方かも知れない。
妹が聞けば、ちょっとは羨ましがる、かも知れない。
そう考えたら、笑えてきた。
アリシア、ねえ。聞いてくれる?
お姉ちゃんが、死ぬ理由を―――。
「神」と呼ばれるような形而上の概念が、この大地に存在しないのは、
それに代わって「タイド」と呼ばれる、実益を伴った恩寵が存在するからだ。
だからその感覚を、アンジェラは「神の御許へ行く」というように形容することはできなかった。
これまで、鉛のように重かった自らの肉体が、
ふわりと持ち上げられて、痛みも、苦しみも薄れて、
昇っていく。上へ、上へと。
やがて、自らの背が、何か、
無機質で硬い板のようなものに預けられた時、
アンジェラは違和感を覚えて、その眼を開いた。
そして、都合の良い幻覚を見る。
今際の際、想い人が自らに、
慈しむような眼差しを向けてくれている、という幻覚を。
『…アンジェラさん、ごめんなさい。』
―――そのようなことを、口にしてはいけません。
王よ、世界があなたに謝るべきなのです。
あなたに罪などないのだから。
『…よく考えたんだ。だけど、まだ早いと思う。
ぼくはまだ、決めちゃいけないと思う。
だってぼくは、ガウの言ったことも、最期まで分からなかったし、
テリーさんや、みんなの言ったことだって、何も分からなかった。
分からないことばかりだから、ちゃんと決められない、と思う。
アンジェラさんの言う、正しいことを、正しく選べない、と思うんだ。
だから―――、』
王よ、どうか、そのような些事に眼を向けないで。
好きなように選べばいい。「正しさ」なんて必要ないのです。
あなたがこの世界を、愛すか、憎むか、ただそれだけでいいのに。
誰よりも純朴で、嘘偽りのない人。
ああ、どうして。
どうして思い至らなかったのだろう。
この人の悲哀を癒すため、
どうして「私が代わりになれれば」と、
考えつかなかったのだろう。
それはきっと、この人の「正しさ」に眼を妬かれたからだ。
この人と、かつてこの人が喪った、無垢なる人形。
私の中に思い描いた二人の姿が「正し過ぎた」のだ。
尊過ぎたのだ。
その代わりになんて、
なれるはずがない、と二の足を踏んだ。
否定されることを恐れたのだ。
―――ああ、でも、
今なら、きっと、
今なら言える。
自分勝手に、どこまでも狡猾に、まるで蛇のように囁ける。
王よ、私はあなたを―――。
冷たく乾いた、小さな唇から、
衣の擦れるような音がした。
ルーセントは彼女の手を握ったまま、
毅然として、その魂に語り掛ける。
「ぼくは行くよ、アンジェラさん。
ぼくたちの子供を、止めなくちゃ。」
それがアンジェラの耳に届いた、最期の言葉だった。
光が消える。音が消えていく。
自分を構成していたものの全てが、ひび割れ、離れ、散っていく。
それでも、アンジェラは自らの死に「冷たさ」を感じることはなかった。
それどころか、彼女はある種の「熱」さえ抱いたまま、死んでいった。
既に止まった心臓が、それでもばくばくと音を経てている。
「ぼくたちの子供」というルーセントの言葉が、
死を圧倒するだけの熱を持って、
彼女の魂に反響し続ける。
―――ねえアリシア、今のを聞いた?
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「…お前はここに残ってもよいのだぞ。」
眉をひそめ、心配そうに告げるロムウェルに対して、片手をひらひらと返して、黒髪の学徒巫女は嗤う。
長らく離別していた、自らの実姉。
その凄惨な死体を前にして、心底おかしそうに、その死にざまを笑ったのだ。
彼女の仲間たち、3人の学徒巫女も。
その姿を見て、冷や汗を滲ませた。
日頃見ている、あの怜悧冷徹な彼女から、
こんなにも純然な、ある種の狂気さえ感じられる程の哄笑を聞いたのだから。
心に傷を負ったのかも知れない、と。
心配する仲間たちを後目に、アリシアは補足する。
『…いや、おかしくってさ。ほんと。
いつも道端のゲロ見るようなカオしてたお姉ちゃんが、こんな幸せそうにしてるの、初めて見たから。』
アリシアがその手を、
既に冷たくなったそれを、まるで拾い上げるようにして握る。
『それも、王冠かぶって玉座でくたばってんだから。
聖人よりも、お姫様になりたいって言ってたあんたの夢、叶ってんじゃん。
そしたら「正解」じゃん…あんたの人生さ。』
生と死の境を挟んで、モノクロームの姉妹が微笑み合う。
あの屋根裏でお互いの未来を夢想した、在りし日のようにして。
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「聖女」アンジェラ - end