■ザヴィアーの狂信者 - 03「大いなる飛翔のために」

 

十年をかけて、少年は「それ」とは意思の疎通ができないことを知った。

それの発話は、まるで"音のサラダ"と形容する他にないほど、耳に対して乱れ―――、
それに対して如何なる言葉をかけようとも、それの反応はランダムだった。

さらに十年をかけて、青年は「それ」が老いることも、死ぬこともないと知った。

彼は「それ」の正体が、天上のオーロラ、即ちタイドと浅からぬ関係を有しているのではないかと考えた。
…が、的外れだった。「それ」はタイドの影響を全く受けていないことが分かった。

「それ」を研究するために、ヴィルヘルムはアイエンティ中の知者たちを集めた。
その過程で、知者たちを効率よく発見するための工程も研鑽された。

アイエンティに生まれた女性。
そのほとんどは、大なり小なり、何らかの異界知を有していることが判明した。
ある者は"夢"に、ある者は"既視感"として、それらを自覚していたようだった。

ヴィルヘルムは、彼女らの智慧の中に「それ」を理解するために必要なものがあると信じていた。

彼の創設した養護施設は、オーロラの下に生まれた寄る辺なき少女たちを集め、
北方の発展に寄与させるための研究施設として、都市国家群から大きな支持を受けた。

ヴィルヘルムの目的と、アイエンティ都市国家同盟の利。
この連携が、今日まで続く「学院」の基礎を形作った。

そして、さらに二十年をかけて―――、

―――彼は「それ」を理解することは不可能だ…という事実を、理解した。

「位相が異なる…んじゃないかな、多分だけど」

「1階にいるヒトと、2階にいるヒトでは、ボクシングはできないっしょ?」

「"テレビ"の向こう側とこちら側、みたいな」

学徒巫女と呼ばれるようになった少女たちの中には、
「それ」に関しての見解を述べる者も出てきた。

そして、それらのあまりに突飛な解説の多くを耳にし、
ヴィルヘルムは時折、狂いそうになりながらも踏みとどまり、やがて理解した。

自らが半生をかけて叶えようとしたもの。
ただ一言「それ」と言葉をかわしたい、という願いは、
やはり御伽噺であったのだ、と。

あの日と変わらず「それ」は落ち着き澄ました表情で、
彼の部屋を漂っていた。

ヴィルヘルムの書斎は、窓のない閉塞的な空間だ。

「…ザヴィアー、君は変わらないね。」

彼はある時から、「それ」をザヴィアーと呼び始めた。
それは、かつて母から教わった、異界の天使の名であった。

「僕はおじさんになっちゃったけど。」

ヴィルヘルムは、顎に蓄えた髭を撫でながら「それ」に語り掛ける。

「このまま僕が死んでしまったら、きみはどうなるんだろうか。
 なにもわからないまま、きみだけは永遠に、世界を漂い続けるんだろうか。」

不安を吐露しながら、ヴィルヘルムは、自らの目頭が熱くなるのを感じた。
この四十年、ただの一度も会話はない。
それでもヴィルヘルムは「それ」のことをよく知っていた。

―――好奇心旺盛で、何もかもを食い入るように見つめ、
飽きればすぐに次の何かを探し、いつも物足りなさそうにしている、きみ。

昔、この書斎に「窓」があったころはたいへんだったね。
きみは、すぐにそこから出て行こうとしてしまうから。

―――退屈だろう。
ぼくだけがきみに、夢を見させてもらっている。
なのにぼくは、きみに何もしてあげられない。
きみの退屈を紛らわすものさえ、用意してあげられない。

悲観が諦観にすり替わる。
悲しみが諦めを誘う。

それでもヴィルヘルムは、やはり「永遠の少年」だった。
あの夜のことを思い出せば、否応なく胸が高鳴った。
この心臓は、まだ打てるほどに熱い。
そう自覚する。

研究を続けなければならない。
洗いざらいでダメなら、さらに手広く、洗いざらいにする。
「それ」について語る学徒巫女がいる、ということは、
「それ」を、より精細に解析できる学徒巫女がいるかも知れない。

―――全てだ。
このアイエンティに生きる、全ての少女をこの「学院」に集めるしかない。

それから、さらに三十年。
ヴィルヘルム・ユミルは、研究の手を休めることはなかった。
その副産物として発見された無数の叡智は、発展を大きく加速させた。

やがてヴィルヘルムは「最もアイエンティの発展に寄与した者」として、
都市国家同盟の代表者にまでなった。

「学院」はアイエンティにとって最も重要な機関になり、
そして学徒巫女たちは「星の宝」とまで呼ばれる存在になった。

「ユミル先生!」

ヴィルヘルムの老体に駆け寄る学徒巫女たちは、みな目を輝かせて、日常がいかに幸福であるかを表現する。
その様子は、ヴィルヘルムが、彼自身の目的のためとはいえ、人生において、多くの人々を救い、
多くの少女たちに役割と夢を与え、希望へと導いてきたことの証左であった。

彼の人生は愛されていた。
それゆえに、それを自らの手で投げ打つことは、極大の苦痛であったことだろう。

ヒトとしてのヴィルヘルム・ユミルは、百七歳の誕生日に死亡する。
死因は老衰ではなく、実験による"事故死"…とされている。

だが、その実態は、
ヴィルヘルムが一生を費やして研鑽した「夢」への、
大いなる飛翔であった。