■ザヴィアーの狂信者 - 04「仄暗い水の底へ」

 

結論から言えば「それ」と接触するためには「それ」と同じ位相に転移する必要があった。
一階と二階。白紙の裏と表。交わらない平行線の対岸。
そして、それらを行き来する方法が、研鑽の果てに、ついに確立された。

この方法は、一人の学徒巫女によって構築されたものだ。

彼女はヴィルヘルムの夢に共感した…ワケではないのだが、ともかく天才的な頭脳の保有者であり、
この方法を、自らの異界知に頼らずに構築した。

つまり、結局のところ「それ」に接触するための方法は、
アイエンティのタイドの中には無く、研鑽された科学の内側から自然と姿を現したのである。

しかし、これを"偶然"や"奇跡"という言葉で片づけてしまうのは、
ヴィルヘルムの人生に対して、礼を欠くものだろう。

百年間、彼が集積し続けてきた知識の山。
これを「百年に一度の天才」が学び尽くしたことによってようやく、
扉は開かれたのである。

既に視力も、聴力のほとんども喪い、
触れ得ざる死に脅かされていたヴィルヘルムは、
しかし、己の人生に結実を見た。

「…学院長。一応、最後に警告しておきます。
 我々という存在は、アイエンティに記録されている"ヒト構造体"とは少々異なる生き物です。
 よって、この方法で位相転移が成功するかどうかは、分かりません。
 OSが違いますから。

 最悪の場合、あなたの位相はズレて、かつザヴィアーの位相とも重ならない場合がある。
 そうなったら、まぁ、分かっているでしょうが、最悪です。
 二人して隣同士の「永遠の牢獄」に囚われるワケですから。」

―――それでも。

「…一応、言っといただけです。あなたは、そんな脅しじゃもう止まらない。
 正直あたしもワクワクが止まりませんよ。コレ、ヒトで実験してみたかったから。
 あたし、そういう機微わかんないんで、さっさと装置にブチ込みますね。

 ああ、でも。
 ―――恩返し、的なところは、ちゃんとあって。
 あたしのおかーさん。学院に拾ってもらわなきゃ、道端で死んでたらしーんで。
 となるとあたしも産まれてないんで。ユミル先生には感謝感謝、って、話なんですね。
 
 ほんじゃ、"グッドラック"、ですね。
 これは異界の言葉で"良き旅路を!"って意味らしいですよ。
 知りませんけど。」

―――ああ、ありがとう。

もはや言葉にならない言葉を、
ヴィルヘルムは装置の中に横たわったまま、学徒巫女に向けた。

気付けば百余年。
最初に拾い上げた学徒巫女が、
子を産み、孫を産み、その孫に看取られるほどの時間を、
重ねてきた。

それが終わる寂しさ―――、
しかし、ああ、どうだ。
ぼくの胸は、高鳴っている。

熱い。
それは、装置がぼくの身体を、熱によって分解しているから、ではない。
心だ。物質として存在しない、ぼくの心が、発熱している。

指先から解け、爪先まで溶け、
ぼくは死んでいく。

熱い。
心が。
まだ恋をしている。
あの夜の続きを夢見ている―――。

学院の地下施設。
アイエンティ都市国家同盟の行政部にさえ知られていない、
そこはヴィルヘルムの「アトリエ」だ。

地上文明のレベルを、
遥かに千年以上は先取りした世界が、
そこには広がっている。

全面を、白く滑らかな壁に覆われた部屋に、
巨大な装置と、二つのガラスケースがある。

その片方には「それ」がいる。

ザヴィアー。百年の間、地表の深海を漂い続けた"星の堕とし児"。
そしてもう片方に、原子的結合を解かれ、今や"情報のひも"と化しつつある、永遠の少年。

轟音と共に稼働する装置が、不可視不可聴の波を際立たせ、
それを操作する学徒巫女は楽し気な面持ちのまま、
やがて、ガラスケースの内側に亀裂が走った。

自らの意識が離散する中、
ヴィルヘルムは人生を省みる。

―――走馬燈?

とはいえ、実りのない研究と、人買いばかりを繰り返していた人生だ。
今さら見返したところで、なんの面白みもない。

ああ、しかし、ザヴィアー。
きみがいる。あらゆる瞬間に、きみがいた。
それだけでぼくは幸せだった。
独りよがりかも知れないけど。

だからこの幸せを、きみと共有したい。
もらったものを、還したいんだ、ザヴィアー。

「 … モラタモノ? カエシタ? ザビ?」

意識と肉体が、気泡となって消える刹那。
ヴィルヘルムは確かに、その声を聴いた。

仄暗い海の底で、
漂う少女の輪郭を見た。

彼女の唇が動いていた。
彼女の言葉が音を成していた。

「ぼくの名前は―――、」

消えゆく意識の端を掴み、
少年もまた、言葉を発する。

二人は、あの夜と同じ姿形で、
"てのひら"を合わせた。

「ぼくの名前は、ヴィルヘルム。
 ヴィルヘルム・ユミルだ。」

「ビ…ル、ム、ミ? ミル、ミル?」

たどたどしく、しかし嬉しそうになぞるだけのザヴィアーの言葉に、
少年は無邪気に笑う。

「それでいいよ、ザヴィアー。」

炸裂したガラスケースの内側で、
ベタリと、何か巨大な、そして湿ったものが、
地面に落ちる音がした。

===

実験は成功し、ヴィルヘルム・ユミルは死んだ。
後に残ったものは、そう、彼の残滓だ。

スケールを違えたヒト。
深海生物のような特徴を備えた、怪しき肉塊。

知性も記憶も、そのほとんどが喪われ、
赤子のように振る舞うことしかできない、無垢なる怪物。

天才的な学徒巫女の発案した、
"超高速の輪廻転生"によって誕生した、
ヴィルヘルムの魂を有する新生児。

そして、彼が産まれた影響によって―――、

「ミルミル。今日はね、デイジーっていう子と友達になったよ。」

―――ザヴィアーの位相は、少しだけ"こちら側"に寄った。

彼女もまた赤子だ。
彼女が自分という存在を理解するためには、まだ時間がかかるだろう。
同様に、かつてヴィルヘルムだったものが成長し、
その魂が、彼のものであると証明されるまでにも、きっと永い時間がかかる。

それでも、二人はその道を、
共に歩んで行くことができるようになった。