■ハイネ - 05「幼子、黄昏に眠る」

 

彼は自らの責務を完璧に果たした、と言ってもいいだろう。
斜陽の塔にて行われた「コロセウム」における、彼の実質的な戦績は「全勝」だった。

アンジェラと共に、ルイゼットなる狂人を破壊した。
弓士ウィリアムとの戦いでは、左眼を失いながらも返す銃弾を浴びせ、彼女を撤退させた。
そして、人狼テレンスと交戦するアンジェラの下に駆け付け、その退路を確保した。
こうして作られた、アンジェラにとっての「最期の時間」が、彼女に幸福な結末をもたらしたのだとすれば、ハイネは「聖女に大恩を返す」という願いですら、十全に叶えたと言える。

彼にとっての不覚があったとすればそれは、その末路が「死」だったことではなく、
「死」が、彼自身が想像していたものよりも遥かに、
おぞましく、惨めで、暗く、冷たいものだったことだろう。

テレンスの投じた小刃は、銃弾よりも素早く、そして矢よりも鋭く、
左眼を失ったハイネの死角を旋回し、彼の首を「皮一枚」になるまで切り裂いた。

それは、ただひたすらに生存を願い、今日この時までを生きてきた「路地裏の獣」にとって、まさに一生の不覚、唾棄すべき敗北だったに違いない。

それでも―――、
ハイネは、自らの血の海に沈みながら、幽かな笑みを浮かべた。

―――感情だ。これは感情。安堵と、達成感と、苦しみと。
感情はヒトの持ち物。

勝った。おれは大成した。
母はおれを棄てたが、その大成を祈った。
父代わりだった富豪はおれを裏切ったが、この自我を育てた。
王はおれを傍に置き、この命を重んじた。
聖女はおれに施し、この命に目的を与えた。

勝ちだ。勝ち。
紛れもない勝ち。

あの路地裏でくたばって逝った、凡百の獣とは次元を違えるほどの「大成」。

得た。得難きもののすべてを。
出発点の、どうしようもない不幸さとは、本来無縁だった筈の充実を。

ハイネは、声を大にして叫びたかった。
おれは勝ったぞ、と。
おれの人生は痛快だったぞ、と。

しかし、切り付けられた喉にそれは叶わず、
彼の笑う声ですら、濡れた血のあぶくにしかならなかった。

そうして「より良い命」を求め、彷徨い、戦い続けてきた人生の終わり。
それを直視してハイネが感じた、最期の感情は、

―――「恐怖」だった。

結局のところ、ハイネはヒトの根本的な部分を理解していなかった。
それはつまり、得たものは失われるということ。
あるいは、生まれたものはやがて死ぬ、というような単純なことだ。

彼の人生は今、終わりを迎えつつある。
それは、これまで彼が築き上げてきた「彼自身」の消失を意味している。

それを目前にして、ハイネは気付いた。
自らがこれまで手にかけてきた、多くの人間にも。
同じだけの人生と、同じだけの最期が存在していたこと。

この痛みを。苦しみを。熱さを。冷たさを。
自分の指先ひとつを動かして、あらゆる人々に与えてきたこと。

―――おれは、どこへ行くんだ?

ハイネは、自らの流した血と汗が、氷のように冷えていくのを感じた。
呼吸のままならない喉を鳴らして、ひきつるような悲鳴を、音もなくたれ流した。
今になってあの人狼、テレンスとの立ち合いにおいて、死角を抉られた不覚を思い出して奥歯を噛んだ。

死にたくない。
失いたくない。
かつて空虚だったこの手の中に今は、
「ある」んだ。何かが「ある」。
それはおれをヒトにしてくれたもので、
ヒトは「未来(これから)」を生きていくもので、
幸福を、いのち―――、

最期にハイネが幻視した「未来」あるいは、彼にとっての「より良い命」の果てにあったものは、つまり。
彼は庭師として強き王に仕え、銃ではなく剪定鋏を握り、そして王には美しい妃がおり、彼女はハイネの手入れする庭をとても気に入ってくれて―――、

というような幻覚だ。

彼は、消えゆく命の灯火を前に焦り、結論を急いだ。

つまり、「ヒトらしさ」とは、傍にヒトを置くこと。
ヒトらしからぬこととは、ヒトから遠ざかること。

―――理解した。おれは理解した。
間違いじゃない。失敗じゃない。
だが「俺」は、今、独りで、死、

「たす、けて…。」

大理石の床に、血塗れの爪痕を遺して。
どこかへと這いずろうと試み、しかし叶わなかったようにして。

庭師のハイネは死んだ。

死後の世界。

天国や地獄、というような死生観は「実態的恩寵(タイド)」が支配するこの世界には存在しない。
人々は総じて、死者は龍脈を通じ、タイドに還るものだと考えていた。
勤勉ゆえにそれを知っていたハイネの心胆を寒からしめ、その最期に脅えさせたものは―――、

タイドに由縁無き「不能者」である己は、死後どこへ行くのか、という疑問だった。

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「王の弓」ハイネ - end