―――変わらない。変わりはしない。この程度の傷で、何も終わりはしない。
自ら流す血を引き連れるようにして、ルイゼットは階段を昇っていた。
―――元よりあんな狂人を相手にしたかった訳ではない。
その後ろ、大仰に腕を組み、階下を見下し、世界を手にかけた、あの愚かな王をこそ、私は殺さねばならんのだ!
故にあんな凶刃を、いくら身に受けようと、"死ぬ"だけだ。ただ"死ぬ"だけ。
決して滅びはしない。この怨嗟、この炎、決して消えはしない―――。
王国軍の一番槍として、過たず王宮へと踏み込んだルイゼットを歓迎した王の双腕。
庭師の銃弾と、聖女の凶刃によって刻まれ、一度は地に伏しながらも、ルイゼットは既に"死に損ない(アンデッド)"なのだ。
いかなる流血も、彼女の脚を止めることはできない。
一歩、一歩、確実に階段を昇り詰めて進む最中、あらゆるものが彼女の意識を通り過ぎていく。
かつて自らが安寧を得て過ごしていた、村の記憶。
自らを頼り、信じた。この世に存在する、およそ全ての善性を投げかけてくれた人々の笑顔。
それが喪われた瞬間の色、におい、音。
ぼろぼろと崩れ去っていく、抜け落ちていく、忘れ果てていくそれらを、拾い上げもせずに彼女は進む。
そして至る。自らの終わり。自らの死。自らの最果て。
斜陽の塔の最上層。そこでついに、かの王の背中を見る。
「傀儡王」
絞り出した声は、自ら慄く程に鋭く、低く、無色透明なものだった。
それに反応して、王が振り返る。
それは、まるで子供のような、
あの村で死に絶えた、純粋無垢な人々のような、
そんな表情(かお)を、
「するな…!」
彼我の距離はおよそ4メートル。
それを一歩で詰めたルイゼットの手から延びる、銀色の刃が、
暗天に煌く陽光を受けて輝き、王を貫いた。
王の外套を貫き、その背後へと抜けていく刃を引き戻しながら、
ルイゼットは、これから展開される10秒間のために、全ての生命力を全身から結集させる。
―――殺す。
さらに距離を縮めながら、払い抜けるような剣撃を、王の手甲がいなして退ける。
既に零距離、徒手空拳の間合い。
踏み込んできたのがルイゼットなら、迎撃を受けるのも彼女である。
それが道理。王の返す左掌、伸びる先は、首筋から頭頂部にかけての直線。
優位な体勢からの反撃にしては純度が低い反撃、それに対して上体をそらしながら刃を返し、
ルイゼットは王の胴体を二度、交差させるようにして袈裟斬りにする。
それが外套のみを切り払ったことを確認した刹那、ルイゼットは更に刃を返し、自らの背後を貫いた。
俊足にして回り込んだ王の掌が、刃を握り止めている。
―――恐るべきスピードとパワー。
だが、"それだけ"だ。
何もかもが足りていない。
私を殺す動機が足りていない。
足りていないからこんなにも甘い。
だが私にはあるぞ。貴様を殺す動機がある。
それが全てを凌駕する。
さあ―――!
王の指を跳ね飛ばし、回る扇の如くにルイゼットが躍動する。
鋭利な刃を有した竜巻のようにして、早く、速く、疾く。
外套を棄て、その肉体を曝した王の身体を切り裂いていく。
左の上腕筋、右の大腿四頭筋、腹直筋、小胸筋、短掌筋、前脛骨筋。
切り裂いた傍から再生するというのなら、それを飛び越えるだけの速度で"おろし続ける"。
命を消耗して凌駕しろ。ただこの時のために永らえたのだ。
こんな甘っちょろい、
闘う気があるのかどうかさえ定かではない、
クソガキのような、
王の成り損ないが、
殺人鬼が、
どうして、
「何故殺せないッ!?」
竪琴を強く爪弾くような音を経てて折れたのは、
ルイゼットの心ではなく、王の再生力でもなく、
彼女の振るっていた軍刀だった。
彼女がこだわり、執刀器具に良く似せて造らせた魔法銀(アルミ)の軍刀。
王国を病巣に見立て、それを取り除くという決意を鈍らせないための凶器。
それが今、酷使に堪えかねて折れた。
ルイゼットは、半分程になってしまった刃に視線を落としながら、
傷つける程に唇を噛んだ。
「お前はあれだけ殺せて、なぜ私はたった一人を殺せない!?
お前の虐殺は許されて、なぜ私の復讐が許されない!?」
死に損ないとしての外装がひび割れ、剥がれ落ちていくように感じられた。
「怒髪天を衝く」を体現するかのようだった、彼女の暗い赤髪が、
まるで意気を失ったかのようにして、濡れて萎れていくようだった。
そうして、塔の頂上で膝をつき、まるで―――、
そう、まるで「ただ独りの女」のようにして、涙を零し続けるルイゼットに対して、
『…ぼくはヒトじゃないんだ。』
王が声をかけた。
『…何も知らなかった。
許して、とは思ってない。
ごめんね、とは思ってるけれど。
でも、ぼくが本当に謝らなくちゃいけないのは、
きっと、あの子を死なせてしまってから、あとのことだと思う。
もう一度会いたいって、思いさえしなければ、
多分きっと、もっと早く、ぼくは自分を殺して、
みんな痛い思いをしないで、きっと、でも…。』
まとまらない言葉を発し続けながら、
王はまるで、子供のように泣きじゃくり始めた。
『ご、ごめんね…。ぼくは、ぼくの周りのヒトよりもきっと、
きみのようなヒトに、ごめんしなくちゃいけないのに。
それさえ、ぜんぜんできなくて、ごめんね。
ぼくがあの子に会いたいのと同じくらい、
きっときみも、誰かに会いたいのに…。』
―――ふざけるな。
こんなところまで来て、汚すな。純度を落とすな。
悪鬼のままでいろ。それじゃまるで、お前は、お前は―――、
「泣くんじゃないッ!
あの子みたいに、泣かないでくれ…!
クソッ…こんな筈では…こんなことのために、遺された訳では…!
私は、私は―――!」
慟哭し、立ち上がろうとしたルイゼットの膝が、
しかし、椅子の脚が折れるような音を経てて、挫かれる。
これまで、復讐の狂気の中に浸されることで維持していた不死性が、今や見る影もない。
戦いに敗れ、自らの信念の象徴とも呼ぶべき軍刀が折れ、
そうしてその最期に、追い続けた仇敵が、比喩ではなく、ただの子供だったことに気づき、
ルイゼットを「凡庸な死」から遠ざけていたもの。
いわば「死神の寵愛」が、今、彼女から失われたのだ。
痛みと、熱と、恐れ。
呼吸が、できない。
あの瞬間から忘れ去っていた何もかもが、
いま突然に去来して、彼女の胸中を埋め尽くした。
痛い、熱い、怖い。
言葉にならない嗚咽が、
限りなく喉を通り続ける。
息の続く限り、う、という音を連続させながら。
ルイゼットは、辺境の医師に戻っていく。
「…酷いよ…あんまりだ…。
みんな、優しかったのに…。」
零すほど、次々に足されていく悲哀。
放つほど、無限に継がれていく悔恨。
そして喋るほど、流れていく有限の血。
ついにルイゼットは膝をついてすらいられなくなり、
自ら流した血の河へと倒れ込んだ。
シンクに水を放ったような音。
血漿と、僅かな消毒薬のにおい。
王はそれを見下ろしながら、自らの涙を拭いながら、
何かを考えているようだった。
それはきっと、長い時間をかけて、この「悲しむヒト」の傷を癒すか、
それとも、自分の為すべきことを優先させて、この「怒れるヒト」を見殺すか、
そういった判断についてなのだろう。
つい先ほど階下で、自らが最も親愛を置いていた聖女を看取り、
自らの使命を優先して塔を昇った彼にとってさえ、
ルイゼットという人物の存在は衝撃的だったのだ。
これまで、自らの眼に映らなかった「無辜の民草」。
自らの過ちによって何かを喪った、正真正銘の被害者たち。
彼女らの慟哭を耳に聞き、眼に見たことで、王は大きな啓蒙を得た。
自分がしたこと。
その過ちが、故意のものではなかったとしても。
罰されるべき重さの罪を、自分は背負ったのだ、と。
気付き、しかしそれでも、
幼子の如き王は、次の判断を誤らなかった。
ルイゼットの背を通り、その心臓へと、
折れた軍刀が突き刺さる。
まるで悪鬼のようにして、
王はルイゼットにとどめを刺した。
自らの使命を。
これから起きる、最期の戦いを優先したのだ。
うつ伏せたまま小さく喀血して。
辺境の医師、ルイゼットは絶命した。
痛みと苦しみは過ぎ去り、
その最期に、王の非道に憤りながら、
彼女は王を、憎み抜きながら死んだ。
それが良かろうと思った訳ではない。
ただ、己が「まるで悪鬼のよう」であるならば、
彼女の怒りと憎しみは「正しさ」を帯びるだろう、と。
王は結論したのだ。
劇的な成長だった。
叱られて泣く子供から、
自らの手が産み出した罪悪感に対して、涙を流す「ヒト」へと。
ごめんね、と繰り返しながら、
名前も知らない復讐鬼の亡骸を背にして、
されど王は進む。
陽光によって形作られた、
不可視の階段を昇る。
塔の頂上よりも、さらに上。
暗天に太陽を頂く、熱風の吹き荒ぶ、あの闘技場へ。
===
「執行者」ルイゼット - end