学徒巫女、タリア・トーテンタンツは、ひどく内向的で幼い自我と、身勝手な性格、そして「異界の病態」に関する知識を持った学徒巫女だった。
彼女の精神は稚拙である一方、その知識はあまりに高等で、解読に難く、仮に彼女が「北の学院」に送られていたとしても、その生涯において、有意義な成果物を産出することはなかっただろう。
ザントファルツの流儀に則り、その価値で言うならば、金塊のひとかけらとも釣り合うまい。
それでも―――、ロムウェルはよく覚えている。
エスティアの鉱山地区、赤い岩肌の側面に建つあの村の、あの宿で。
己を見上げて嗤う「鎖に繋がれた」彼女の、無邪気な敵意に満ちたあの顔を。
村人曰く、彼女はある時、アイエンティの方角から放浪してきたという。
村人たちは、最初はタリアを哀れに思って養育していたが、やがて、言葉に棘を持ち、尊大に騙り、人々の不安を煽る言葉ばかりを並べる彼女を、疎ましく思い始めた。
やがて彼女は鎖に繋がれ、そして「金に換えられる」ことになった。
奴隷商として名の通っていたロムウェルが呼び寄せられたのは、そのためだ。
彼は村長から、タリアを引き取るように願われた。
「恐らく、沼地の魔女に育てられた娘です。吐く言葉の全てが忌まわしい。
アイゼンシュタイン卿、あなたはこの娘のように「呪われたもの」を集めていると聞きました。」
まるで家畜か、ペットの首を引くようにタリアを扱う村長の手を諫めながら、
少女の瞳を覗き込んだ瞬間に、ロムウェルは直感した。
―――間違いない。「彼女ら」と同じ瞳。
この娘はアイエンティの巫女だ。
異界知の宝庫、ヒトの未来を導く智慧の持ち主だ。
『…ああ、村長殿。彼女の「庇護」は、おぬしらの手には余るだろう。』
ロムウェルはヒト1体の価値として、相応の額を提示した…が、
村長はそれを蹴り、そして代わりに提示されたのは、それを遥かに下回る、まるで「はした金」のような額だった。
商売の勝手を知る者に対して、このような提案は悪手だ。
だってそれは「万が一にも買い取ることを止めて欲しくない」という思いが透けて見えている。
その値段を聞いて「厄介事」を掴まされるものと予感し、商談を切り上げる者だっているだろう。
だが、ロムウェルはその提案こそ、この娘が真に「呪われている」ことの証左だと感じ受け、それを受諾した。彼らにとってこの娘は「金を払ってでも、いなくなって欲しい」のだ、と。
やがて商談は成立し、ロムウェルはその「小さな魔女」の手を引いて商隊へと戻る。
「タリア」を名乗る少女は、この村から出られることに対して喜ばしく感じているようで、しばらくは落ち着かない様子でいたが、いよいよ商隊の馬車が出発する際、村へと振り返り、目を細めて笑いながら叫んだ。
「さようなら! 全てが呪われた村のバカども!
あなたたちに祝福と、ナプキンを! みな、踊り狂って果てるだろう!」
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『よく食うのォ…。』
整然と並べられた肉料理に対して、まるで噛みつくように牙を立て、素手で貪り喰うタリアの姿を見て、ロムウェルは、昔飼っていた犬のことを思い出した。
『さて…何から教えたものじゃろか―――のォ、タリア。』
「ンまいなコレ。大魔女サマの作ったイヌスープよりンまいよコレ。
コレなに? おいヒゲ。コレなンの肉だ?」
『…犬なんか食っとったんか、おぬし。』
「そう、大魔女サマは、ワナにかかったモンは何でも喰うンだ。あーしも喰った。
でもマシさ。マシ。マシマシ。マシマシマシ。」
用意された学徒服の袖で口元を拭う、タリアの姿はまるで幼子のそれだ。
いや、実際そうなのかも知れない。小柄で発育も悪そうに見えるタリアは、
その姿から年齢を推察することが難しい娘だった。
とはいえ、年齢を訊ねてみても無駄だろう。
このタイプのオラクルに対して、パーソナリティへの問答が意味を為すケースは少ない。
タリアがテーブルの下でバタつかせる足が、何度となくロムウェルの脚を叩く。
―――彼女は既に、智慧によって自我を潰されかけている。
落ち着きなく周囲を見渡す眼も、反芻する奇妙な微笑みも、悪すぎる血色も、およそ常人のそれではない。
「大沼の魔女」に育てられたというのも、どこまでが本当のことやら。
『…しかしのォ、タリアよ。ダメもとで聞いてみるんじゃが。
わしにはちと分からんことがある。
…「言うほど」か? おぬしは。
捨てるように売られるほどか?
あの村では随分と嫌われておったようだが。
わしは、そこまでとは思わん。』
村、という言葉を耳にした途端、
タリアの小さなくちびるが、まがる。
ケヒヒ、と。
両手で押し潰すようにした口元から、零れた笑みが痙攣のように続く。
その様子にも見慣れたものだが、しかしやはり、ロムウェルには合点がいかなかった。
このタリアという娘、確かに奇妙奇抜、素性も怪しく、挙動も面妖だ、呪われていると言えばそうも見える。
だがしかし、村で伝え聞いたように「人々の不安を煽る」ようなことを好んで口走るようなことは、今のところしていない。
そう。タリアが「呪い」を吐いたのは「あの村」に対してだけなのだ。
「ケヒヒヒ…、ケヒタヒ、タヒタヒケヒケヒ…。
あーしね、獣を喰ったよ。大魔女サマはね。
全部、残さず喰った。あーしが「残した部分」もね、喰った。
大魔女サマは、いいの、いいンだ、ナメクジだから。別に。」
でも、と続けて、俯いたタリアの口が、
まるで「下弦の月」のように笑み曲ぐ。
「でもあいつらは 違 う。致命的だ。
もう 呪 われている。」
その笑顔に、ロムウェルは何か凍てついたものを感じた。
背骨を氷の刃で寸断されるようなおぞましさ。
それはタリアに対してではない。
記憶の糸を辿り、村の全景を思い出す。
あれは山岳地帯の村であり、切り立った岩肌の中に取り残されたような場所にあった。土地は狭かろう。
しかし住人は多かった。人口の密集度で言えば都会並だ。
希少な鉱石の採れる場所だし、我々のような商隊と取引して、村自体は豊かだったと言える。
―――だが、なかった。
これまで旅した多くの町村にあって、そのどれもが維持に苦労していた「共同墓地」が。
棺桶による土葬を主流とするエスティア文化圏において、それはつまり―――、
『…まぁ「そういう風習」が残っとる場所もあるにゃあると言うが。
それが「呪い」か?』
既に食事の手は止まっていた。
その震えも、嘲笑う声も。
タリアはロムウェルの眼を真っすぐに見据えて、抑揚を失った声で告げる。
口元に、幽かな微笑みを湛えたまま。
「伝達性海綿状脳症(Transmissible spongiform encephalopathy)。プリオンによる神経変性。
変性後の構造体が安定し過ぎているせいで治療方法ナシ。
せっかく教えてやったのにね、脳みそはヤメとけって。
でもヤメないから、そのうちみんな踊り狂って、ヒヒヒ、タヒタヒ…。」
ロムウェルは、つい先ほど嚥下した家畜の肉が、
喉のついそこまで上り詰めて来るのを感じながら、
それと同時に、カチンと鳴る音を聞いた。
脳裏で、つるはしが、鉱床を叩く音だ。
―――「病態」。
タリア・トーテンタンツが持つ「叡智の闇」が光り、輝く。
ヒトの未来を、数百年、数千年と先取る力。
それを宿す娘たち。
ロムウェルの鋼のような肘が、食卓を揺らしてそこに立つ。
自らの顔を覆ってなお余るほどの巨大な掌が、
ロムウェル自身の頭を掴んで抑え付ける。
それは、恐らく自らの顔面に浮かんでいるであろう、攻撃的な笑みをタリアに見せぬようにだった。
ロムウェル・アイゼンシュタインという人物は「善悪」「美醜」「正邪」について、
大衆性にそぐう、という意味での「正常」な判断ができる。
ゆえに、それは「やがて死に逝く村」に向けられたものではなく、
ただ、一人の商人として「良い買い物をした」という結果への満足感によるものだ。
砂漠の風が、ロムウェルたちのいるリストランテの窓を叩く。
その外には無数のヒトが行き交い、繁栄と喧噪が渦を巻いている。
金の魔性と、異界の智慧が、同じ天秤にかけられる場所。
力強き陽光が照らす、砂の都。
ザントファルツにまた一人、
学徒巫女(オラクル)が迷い込んだ。
―――。
「タヒ。」
===
「タリア・トーテンタンツ」
おわり