■ロムウェル - 03「モータル・マリスとヒューマン・チェア その1」

 

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右手の人差し指と、左手の人差し指を交差させて、
ニヤけたくちびるの上に「×(ばってん)」を作る。

それが「ルール」だ。

公演中のおしゃべりは禁止。
だけど笑ったり泣いたりは大歓迎。

ずらりと並べられた真っ白い犬歯の隙間から、
薄赤い舌がちらりと覗く。

暗闇の底で輝く紺碧色の瞳が、その愉悦を予見する。

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大渓谷の第四階層、その南部に広がる広大な地下森林帯は「カーロの森」と呼ばれている。

古い貴族主義が支配し、いずれの国家とも文化的交流を持たない、絶縁された闇の中に。
その姉妹、ラウラとフロールは住んでいた。

偉大なるホーエンツォレルン家の跡取りとして知られるこの姉妹は、
そのすがた麗しく、そのこえ清廉であり、全ての行いに道理を有し、
あらゆる人々に対して、その生き様だけで「貴(とうと)さ」を教示する、理想的な貴族だった。

大渓谷の旅人として数多くの探査録を記したヨナ・ウォーカーは、
自著「大渓谷の軌跡」の中で「死ぬまでに一度は目にすべき絶景」として、
「血色の水晶渓谷」「塩人形の湖」と並べて、
「ホーエンツォレルンの美しき姉妹」を挙げている。

ヨナは、自らが「カーロの森」で受けた歓待について、文章からも伝わる程に興奮した論調で、その筆舌に尽くしがたい喜びを語った。

曰く、この世のものとは思えないほどの「知的な喜び」に満ち溢れた珍味。
それ以上の豪奢さを表現する方法が思いつかないほど見事に飾り立てられた客室。
暗がりの森、その奥底が湛える静謐さ。
そして、それと相反する扇情的な音楽による彩りは、ホーエンツォレルン家が抱える「変面楽団」の手によるもの。

彼はそこで「決して忘れられない一夜」を過ごしたという。

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―――ロムウェル・アイゼンシュタインの下に届いた「招待状」には、紅紫色の封蝋が施されていた。

その紋章の意匠は「交差する手斧」。

それがホーエンツォレルンの家紋であること、そして、
彼らに関する「のっぴきならない噂」を知っていたロムウェルは、
長らく机の引き出し、その奥に放置していた。

彼らと関わることは時に―――、
このザントファルツにおいては、「致命的」な問題に発展する可能性があった。
そう、その封を切ることさえ、はばかられるほどに。

だが、やがて時が過ぎていく内、
彼が「学徒巫女」と呼ばれる存在の蒐集をはじめ、
彼女らの在り方と触れ合っている内に。

ふと、気付いた。

「この世に常ならぬもの」。
彼女らが生息しているのは、いつも、
そういったものの傍であったこと。

そうしてロムウェルはある時、ひとつの意を決すると、
机の奥底から「招待状」を取り出して、封を切った。

その内容は、そう、確かに「致命的」なものだった。
届いた時点で封を切らなかったことは、正解だった。

やがて彼は、自らの隊商ではなく、一人の従者を連れて、余暇を用いた旅に出た。
ディエクス大渓谷の第四層、カーロの森を目指して。

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「―――まぁ、郵便物に遅れが?
 それで、今になってザントファルツからわざわざ?
 それは…天国のお父様もきっと喜びますわ、ロムウェル様。」

曰く「苛烈にして淑やかなる風情」そのものが着飾り、輪郭を得たような。
白く透き通る肌に、映り込むようなワインレッドの長髪と、
神(タイド)が「そう造り替えたかのよう」に完璧な顔かたちを持った娘。
ラウラ・ホーエンツォレルン。
そして―――、

「…かの砂の都に名高き豪商。
 歓迎いたしますよ、アイゼンシュタイン卿。
 それで、父さまの手紙には何て?」

中性的で神秘的、壮健で長く美しい手足に恵まれた娘。
色も形も違う左右の瞳と、中央を境にして「漆黒」と「純白」に分けられたショートヘア。
あらゆるものの中間にあり、そしてその不完全さこそが「美」であることを強烈に体現する、まるで「正邪の似姿」。
フロール・ホーエンツォレルン。

確かに「絶景」だ。
姉妹だというのに、これほどまでに対極的で。
そして互いが、その「極地」に位置する美しさを有するというのだから。

ロムウェルは生唾を飲んだ。
彼女らの煽情的な怪貌を目にしたヒトならば、性別に関係なく誰もがそうするだろう。

だが、ロムウェルの場合は、ほんの少しだけ違った。
彼は、姉妹の美しさにではなく、これほどまでに「人間的な美しさを持つ生き物」が、
何故こんな「獣ばかりの辺境」に住んでいるのか、という疑問の背後に「呪い」を予感したのだ。

『ええ、それが―――、
 ホーエンツォレルン卿はどうやら、近くザントファルツへのご旅行などを、ご検討していらしたようでして。
 それで私めに、その案内などを任せようと、考えていらしたようですな。
 それが、この数か月の間にお亡くなりになられていたというのは、その―――、
 たいへん残念に思います。ご冥福をお祈りします。どうか龍脈の御許で、安らかに眠られますように。』

姉妹と、そしてその間に飾られた「辺境伯の肖像画」に対して深く頭を下げつつ、
ロムウェルは横目で、その「エントランス」の様子を探る。

月光さえ差し込まない、この暗黒の領地において。
唯一、森の外からでも遠目に確認できるのが、この屋敷だ。
カーロ大森林の10%にも及ぶ広大な敷地の中に、地上の様式とは全く異なる美観に基づいて設計された、大屋敷、7つの小屋敷、4つの塔がある。

そして、ロムウェルが招かれたのはその大屋敷。
今となっては主を失った、城にも似た巨大な住宅だった。

エントランスは、ある種の異様な静謐さを以て客人を受け入れている。
使用人や、噂に聞く楽団等、姉妹以外にも多くのヒトがここに勤め、今も働いているはず。
だというのに、この静寂はどうしたことか。

陽の差さぬ場所とはいえ、標準時間で言えば未だ夕刻前だろうに。

「ああ、ロムウェル様―――」

下げた頭の首筋に、凍てついた朝露のような声色を刺さる。
ラウラの無機質で蠱惑的な声色に、ロムウェルの巨躯が僅かに震えた。

「それは…無駄足を踏ませてしまいました。
 であれば、今宵はこちらの屋敷に、お泊りになっていってくださいな。」

姉のラウラがそう言うと、
フロールも同意するように首を縦に振り、口を開く。

「あなたは運がいい、アイゼンシュタイン卿。
 明日は我がホーエンツォレルン領における最大の祭日。
 我らが世に誇る「伝統的興行」が行われる日です。
 既に多くの旅人の皆様が、一週間以上も前から領地に停泊しておられます、観劇のためにね。」

「ええ、ですからロムウェル様。あなたもどうか、ご覧になっていってくださいね。
 きっとお父様も、それを望んでおられるわ。」

『…おお、噂には聞いております。それはなんと僥倖なこと。
 ではお言葉に甘えさせていただきたく思います。
 ええと、外に従者を一人、待たせているのですが、そちらの者も一緒で構いませんか?』

「もちろんですよ。
 夕食はこの僕が、腕に縒りを掛けて作らせていただきますので。
 それまではどうか、お部屋で休まれますよう。―――君たち!」

フロールがその、燃える硝子のような美声を響かせると同時に、
通路から、数人の使用人が現れる。
艶のある燕尾服に身を包んだ彼らは、みな壮健な男性のように見え、そして一様に、目尻に紅紫色の化粧を施されている。

そして、彼らの「足運び」を聞き、ふと気づく者がいた。
その人物は、扉を挟んだ位置から、ロムウェルに「耳打ち」をする。

―――「当たり」だ、旦那。
そいつら、到底「普通」じゃねえ。

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やがて、貸し与えられた部屋に通され、積み荷の糸を解いたロムウェルは、噂通りの豪奢なベッドに腰を下ろして息をつく。
―――ある種の異様な、そして圧倒的な「美観」で統一された領地。

地上の美しさを語るならば、それは「陽と光」の美しさだ。
生命の祝福、タイドの恩寵、生誕と進化、研鑽の歩み。
それをこそ、この世界は賛美する。

だが、ホーエンツォレルンの性質はその真逆に位置する。
陰と闇、死の祝福、タイドの恩寵も、最早届かぬ地底の森。破滅と衰退。理の逆行。
それでも尚、この場所は超常的な「美」を維持し続けている。

ザントファルツをはじめ、他の多くの国とは根本から「美観を異にする」という意味で、ここはまさに「異界」だ。

…。


彼等の領地における行方不明者の発生率は、他階層、他村落に比較しておよそ10倍。
それでいて領内に不穏さはなく、人々は貴族による支配を礼賛し続けている。
その理由は、彼ら領民が「何不自由のない富裕」を約束されているからだ。

では、この辺境において彼等を「貴族」たらしめ、領内を動かしている「資本」は、何に由来するものか?

表向きは「建材の輸出」だろう。
潤沢な森林資源。それを切り出し、加工し、運搬する技術。
「森」を軸にして財を得るために必要な土壌、そして技術と知識の全てを、ホーエンツォレルンは有していた。

だが、いかに効率の良い林業を営んだとしても、需要がなければ繁栄は無い。
材木を必要とする村、町、国は数多くあれど、その全てがホーエンツォレルンにそれを求める理由はない。
最大手とは言え、所詮は代えの利く一次産業。その利益だけで「大貴族としての神威」を得るには至らない―――。

というのは、ザントファルツの商人であれば、誰もが到達する結論だ。

ゆえに、その「噂」は特段驚くべきものではない。
何か別の商材があるのだろう、という予測から導き出されたもの。
「火を予感できる場所に立った煙」だ。

王国の闘技場が。

「コロセウム」がヒトを熱狂させるのは、次代を占う儀式だから、というだけではない。
その本質は、そこに「血が流れる」からだ。生死にまつわる感情が飛び交うからだ。

過剰な力が暴れ回るの見て、それを「美しい」と思う人々がいる。
その過程や結末にあって、ヒトの命が失われることに「貴さ」を見る人々がいる。
それは少なからず、あの闘技場の座席を埋め尽くすほどに。

ロムウェルは「コロセウム」を初めとした、この世界における「興行(エンターテイメント)」の概念について、未熟さを感じている。
それらが「人的資源」を浪費することに関して、怒りを覚えもしている。

だからここに来た。

大渓谷、カーロの森。
その領主たるホーエンツォレルン家が催す、他に類を見ない「興行」が、
「商材」足り得るそのパワー。「神威」足り得るその理由。

ザントファルツの予測する「来たる破滅」が人々の心をも壊す時、
その再生を支えるために必要な「娯楽」の在り方を。

この世界で、たった一人。ロムウェルだけが求めていた。