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昼間でさえ薄暗い、陽光に嫌われた領地に、夜が訪れる。
その宵闇は、地上のそれと比べられたものではなく、
人々が手にした松明の炎だけが、
うっすらと、祭場の輪郭を際立たせていた。
闇に眼が慣れてくると、やがて。
松明を手にした人々の表情も見える。
期待、高揚、そして僅かばかりの恐怖。
彼らはこれから「選ばれる」のだ。
祭事の工程は、まず「生贄」を選別することから始まる。
領民は皆、ホーエンツォレルン家の領内にある大祭場に集められ、
そこで祭事の時を待つ。
白鴉をモチーフにしているように思われる礼装に身を包んだ、強壮な祭司たち。
彼らはホーエンツォレルン家の使用人である。
彼らは皆その手に、多くの白枝が納められた筒を持っている。
領民たちは、その筒から一本の白枝を、無作為に選ぶ。
そして―――、
『ちょい待ち!』
澄んだ清水のような声色が、闇に包まれた祭場に木霊した。
司祭長、フロール・ホーエンツォレルンが、その方向に顔を向ける。
かげりも動揺もない、凍り付いた炎のような、その眼差しの先。
宵闇に同化するような黒装束。
そして頭髪も同様に闇に溶け、彼女の輪郭を失わせていた。
だが、その足元にすらりと伸びた白い脚と、学生服に引かれた白線。
そして白と黒、横縞(ストライプ)の膝下装(ハイソックス)が、彼女の存在をまざまざと示す。
『あたしも引かせてもらってもイイかなぁ。』
マリスは外来客でありながら、この祭事に「領民側」として参加することを許されていた。
―――領民ばかりでは「映え」がない。
ザントファルツの民でさえ、この祭事に「加担した」という事実は、
この興行を世界的に知らしめ、より鮮やかなものにするだろう、というような世迷言を。
ロムウェルが提案したからだ。
無論、マリスの入れ知恵によって。
ホーエンツォレルン姉妹にとってそれは、ザントファルツの「賛意」を得たに等しい提案だった。
伝聞が広まり、交通が整備され、より多くの観光客がカーロの森を訪れれば、
彼女らの願い、そして領民たちの望みは、果てしなく拡張されていくだろう。
故に認めた「例外」が、今、このようにして声を挙げた。
フロールはその行為を、一瞬は怪訝に思ったが、しかし薄笑って近づいていく。
「ザントファルツの従者殿。ええ、困ることは何もありません。
それでは、貴女からお引きなさい。
既に伝えられている通り、"紅"を引けば貴女が選ばれる。」
祭事における生贄が「くじ引き」によって定められていると知った時、
ロムウェルは、そのあまりにもずさんな方法に眩暈さえ覚えた。
だが、一方でマリスはそれを「妥当」な方法だと感じていた。
穴だらけ。ズルし放題。だが、そういう方が良い。
それでも選ばれてしまうのは「愚か者」だ。
この方法は、犠牲になる領民をきっちりと「選別」している。
益なき愚者を間引き、興行の種に変えている。
だからこそ、こんな方法で「割り込まれる」とは思いもよらなかったのだろう。
一本の白枝を引いたマリスは、
それを握り込む。折れるほどに強く。
「どうしました? 枝先を見せなさい。」
ひとつの危険を予感しながら告げるフロールの目の前で、
ぱきり、と小気味の良い音を経てて、白枝は折れた。
領民たちがマリスを囲み、手にした松明の火が照らす中。
マリスの広げた掌の上で、
折れた白枝はそれを傷つけ、
鮮血を滲ませていた。
『引いたぜ。
"紅"をよ。』
周囲でどよめく領民たちの声色を聞き、マリスは確信した。
同時にフロールは表情を隠しきれなくなり、眉間に皺を寄せる。
領民たちから挙がる感嘆の声。
その声色に含まれていたものは、純粋な驚き、そして安堵だ。
選ばれた! こんなにも早く!
だが不正ではないのか?
いいや、この不正が通れば。この不正さえ通れば。
「もはや自分は選ばれない」。
ホーエンツォレルンの領民はみな、自らの「役得」と引き換えに、
祭事の都度に「選ばれるリスク」を天秤にかけているだけ。
そこに貴族崇拝の実態はなく、彼らはみな、商人か、あるいは博徒の真似事をしているだけだ。
だから彼らは、この不正を支持する。
マリスの推測は、今この瞬間を以て「事実」に変わった。
この薄汚れた民意を。
跳ね返せる支配者など存在しない。
彼らが「犠牲」を否定すれば、
この祭事は、興行として成り立たないのだから。
「…良いでしょう。強運なる者よ。」
フロールは瞳を閉じ、また薄笑う。
そして振り返り、両手を広げ、未だ事態を知らぬ領民や、観劇者たちに向けて宣言する。
「"最期の入植者"の役が定まった!
今日は我らにとって、記念すべき日になるだろう!
我々は今宵、砂の都の良き理解者を得たのだから!」
フロールの背後、司祭たちに連れられて木製の祭壇に挙がったマリスの姿が、
いくつもの方向から照らされる。
それは松明の明かりなどではなく、
大渓谷で普遍的に用いられている、強力な指向性の電灯によるものだ。
観客席で落ち着かない様子を見せていたロムウェルは、
この時点で、「祭事」が「興行」に移行したことを直感した。
厳かな雰囲気を手放し、犠牲者の姿をより明確に示したことにより、周囲からは、好奇の声が上がる。
彼らがどのような土地で幅を利かせ、何を求めてここに座っているのかは定かではない、だが。
彼らの期待が、檀上のマリスに注がれていることを肌で感じ、ロムウェルは、怒りを抑えるのに必死になった。
「それでは、"女神"の弔いを始めよう。
我々が犯した罪を!
女神の斧を以て罰し!
次代の豊穣を得るために!」
高らかに宣言したフロールが、まるで道化師のように一礼して、祭壇の影に消える。
すると同時に、マリスを照らしていたライトに赤みがかかり、
祭壇はまるで舞台のように、人為的な凄惨さを着色された。
落雷か、と。
ロムウェルが錯覚するほどに、
激しく先鋭的な弦楽の音が、
祭壇の根元より掻き鳴らされる。
変面楽団。
この祭事を彩る演奏家たち。
それは未だヒトが到達し得ない技術の群れだった。
走れ、走れと焚きつけるような旋律と、
古語でまくしたてられるような声楽に、傍観者たちの歓声が加わる。
今や犠牲を免れた領民たちも、
来たる芳醇な未来を夢想して嬌声を上げ始めた。
そこには、ロムウェルが求めて止まぬ「人々の心を救う狂騒」が木霊していた。
腕を組み、岩のように強張りながらも、ロムウェルはその様相を「理想的である」とさえ思った。
ただひとつ、弱者の犠牲を強いる、という一点に目を瞑りさえすれば。
祭司たちが檀上から去り、そこにはマリスだけが残された。
肝心の彼女は、鳴り響く先鋭的な音楽に、心地よさそうな面持ちで耳を傾け、あまつさえ足踏みまでしている。
そして、ふと、マリスの姿が消える。
ロムウェルは腰を浮かしてその動向を探ろうとしたが、
すぐに瞳に飛び込んできた映像が、ロムウェルの正気を揺るがした。
「千里鏡(クレヤボ)」―――と名付けられたその技術は、
学院が秘匿する異界技術の粋、学徒巫女用の携帯端末にのみ実装されている映写装置だ。
遠くの出来事を、複数の鏡を通して別の場所へと映写する。
ホーエンツォレルン家が一体どのようにして、この技術を獲得したのかは定かではない。
しかし今はそれよりも、祭場に大きく設置されたそれに「映し出されたもの」が問題だ。
暗く冷たい石の壁に囲われた空間に。
閉じ込められたマリスが、鏡を覗き込んでいる。
恐らくは祭壇の「床」が抜けたのだろう。
あれは、地下室だ。
そしてその背後には、マリスの様子とは打って変わって、狼狽える複数人の姿があった。
依然として苛烈な楽曲の鳴り響く祭場に、フロールの声が響く。
「さあ、今宵は4人の入植者たちを、カーロの森に捧げよう!
より一層の豊穣を願い、それに相応しい慰めを、女神に捧げるのだ!」
思わず立ち上がろうとしたロムウェルは、
しかし画面の向こうのマリスのしぐさをひとつ見て、下唇を噛んだ。
―――マリス、マリスよ。馬鹿だ、わしは。大馬鹿者だった。
殺しもできぬ、止めることもできぬ。弱者のくせに「解決」など、望んだことが間違いだった。
確かにわしはここに来て、興行の作法を得た。未だ知り得ぬ熱狂の技を知った。大きな収穫だ。
だがそれは、誰かを犠牲にして得るようなものでは、断じてない!
席を立ち、駆け出したロムウェルの脳裏に、マリスとの会話が蘇る。
『旦那。いっこだけサインを決めとく。
私がこうして、お口の前にバッテンを作ったらよ。
そら「おしまい」ってことだ。犠牲者を出さずに…って話がな。
ムリだと思ったら、こうして見せる。
したら旦那も覚悟を決めな。
最悪の場合、私を見捨てること。これだけは絶対に守れ。』
ロムウェルがその場を走り去ったことに気づく者はいない。
祭場は、犠牲を望む嬌声と、血熱を求める狂騒に包まれ、
そうしてついに―――「興行」が始まった。
映し出された画面の中のマリスは、口元に作ったバッテンを解くと、
ぺろ、と小さく舌を出して笑った後、地下室に闇に溶けていった。
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冷たい暗闇の中に響くものは、自らの吐息だけ。
―――男は呪う。自らの運命の酷薄さを。
石造りの床に置いた「てのひら」が、火傷してしまいそうなほどに冷たい。
彼は「その手」で引いたのだ。
1年に1度、8万人の領民の中からたった4人。
2万分の1。
0.005%のトンネルをくぐって―――、
それで終わり。
幸福に満ちた、新しい1年が始まる。
はずだった。
しかし、引いた枝先の色は"紅"。
何故、どうして。
なんで自分が―――、
かつん、と。
暗闇に浸透した音が、
彼の背筋をなぞり上げる。
思わず呑み込んだ吐息の冷たさに、咳き込んでしまいそうになる。
ダメだ、ダメだ、息を殺せ。
―――ああ、どうか、神(ディエクス)よ。
我に閃きを与えたまえ。
この手に技を授け、呪われた運命から遠ざけたまえ。
「女神の弔い」は、ただの残酷劇ではない。
彼だって昨年、そして一昨年は、観客席から「それ」を見ていたのだ。
入植者によって殺された女神、ラウラは復讐に燃えている。
彼らはそれを慰めるため、この地下墓地に落とされた。
慰める方法は二つ。
ひとつは、ラウラの斧にかかり、その鮮血を以て女神の喉を潤すこと。
そしてもうひとつは、入植者のした通りに女神を切り裂き、その血によって森の土を潤わせること。
どちらでもいい。
どちらでもいいのだ。
血を見るのも。
血を流すのも。
どちらだっていい。
それが儀式のルールだ。
4人の入植者か。
女神か。
どちらかが死に果てるまで、儀式は続く。
暗闇の中で、彼は握りしめた。
儀式のため、彼に用意された唯一のもの。
それは枝折りのための手斧(ハチェット)だ。
かつて入植者の一人がそうしたように、
彼もそれを使って、ラウラの肢体を切り裂けばいい。
ああ、ああ、やってやるさ。
やるしかないんだ。
例え相手が女神ラウラであっても、
例えその役割を担うのが、
自らの主君、ホーエンツォレルンの領主であっても―――!
徐々に近づいてくる、石床を鳴らす音。
ゆるやかなその歩み、示威的な金属音。
他の入植者ではないことは確かだ。
金属質な道具を引き摺る音。
間違いなく、「彼女」の足音だ。
やるしかない。
そうだ―――俺は、技巧(ディエクス)の子だ。
踏み込んで、あの華奢な胴体を、叩き砕く。それだけ。
ああ…「加護」だ!
見えるぞ、暗闇の中で、床が見える。壁が見える。
命を求める俺の意志に、タイドが呼応している。
震えも止まった。未来も見えた。
聞こえないものなんて、無い―――。
そうして「彼」は、ついに相対した。
石室の入り口に現れた「それ」と。
「苛烈にして淑やかなる風情」そのものが着飾り、輪郭を得たような。
白く透き通る肌に、映り込むようなワインレッドの長髪と、
神(タイド)が「そう造り替えたかのよう」に完璧な顔かたちを持った娘。
ラウラ・ホーエンツォレルン。
前領主が死去して以来、女神と同じ名を以てその役割を務める、新たなる領主。
麗しきその姿は「狩りの神性」をイメージした装束に包まれている。
鮮血色のスカートに入れられたスリットから、
まるで人間味の無い、真白い大腿が覗いている。
血霞のように繊細なヴェールの向こうで、硝子色の瞳が光っている。
女神の礼装でありながら、復讐者の戦装束。
それでいて、あるいは、冥婚のための花嫁衣装。
ラウラは人差し指を、自らの赤い唇に押し当て、歯の間から息を吹いた。
彼女は観客に告げている。
「上映中は御静かに。
だけど、泣いたり笑ったりは大歓迎。」
彼女は、左手で引き摺っていた手斧の鎌首をもたげる。
そして、口元から下ろした右手で背中から、もう一振りの手斧を取り出した。
斧は、カーロの森に住む者すべてが扱うべき道具だ。
その用途は、伐採、加工、侵略、儀式。
男の視界が揺らぐ。
少し前から「聞こえすぎる耳」によって、その意識は痛めつけられていた。
地上から、歓声が聞こえる。
この石室を覗き見て、流血の期待に沸き立つ人々の、歓声が。
ああ、やめろ、笑うな…やめろ…!
嗚呼! と。
短い雄叫びのような。
あるいは悲鳴のような声を挙げて。
男は倒れ込むように駆け出した。
ハチェットを短く握りしめ、暗闇の中を、その鮮烈な「紅」の下へ。
右下から左上へ。
逆袈裟に斬り上げようとしたハチェットが、しかしその軌道を遮られて火花を散らす。
鋼鉄の踵(かかと)によって踏み潰されたハチェットの刃が、石室の床に撃ち込まれる。
手を―――、
離さなければ、
斬り飛ばされていたであろう、その腕で、
男は自らの顔の前に、
あまりにも脆弱な素手の守りを作り出すことしかできなかった。
それは声だったのか、切り裂かれた喉から漏れた空気だったのか。
男を縦一本に斬り結んだ女神の手斧は、
彼の両指をバラバラに分解し、眼球を叩き割り、口腔を裂き、喉首を砕き、
鎖骨を分断し、そして肋骨を破壊した。
そうして、男の体内で弾け回った骨が、その内臓をズタズタに切り裂いて、彼の運命を確定させる。
だめだ、と。
思ったことさえ、既に手遅れだった。
たすけて、と。
声に出すことさえ、遅れて叶わなかった。
振り上げ、振り下ろす。
ホーエンツォレルンの領民にとって、幾度となく繰り返されてきたその動作によって。
あまりにも素早く、力強く、そして鮮烈な、その動作によって。
女神は、彼の生命を伐採した。
壊れたポンプのようになって、際限なく血を吐き出し始めた彼の喉元を照らす赤い光。
指向性を持たされた電灯。石室に備えられていた機能が、その死をライトアップする。
歓声が。狂騒が。乱れ飛んで地上を震わせる。
「観客」はその全てを見ていた。
地下墓地のすべてを映し出す鏡によって。
この価値ある生贄を。
この価値ある死を。
すべて余すところなく、消費した。
変面楽団の演奏は止まらない。
ばかりか速度と熱を増していく。
まだ佳境(サビ)ですらない。
フロールは殺戮の間、薄く編まれた七色のヴェールを身につけ、躍るように舞台上を跳ね、一部の観客たちの情欲を満足させると同時に、
その腕で、その脚で、親愛なる姉の活躍を「補助」していた。
ラウラの手を介して収穫された男の命が、その鼓動の終わりが、フロールの手にも伝わってくる。
それがあまりにも暖かく、また豊かであったために。
フロールは、哀れむように悦び、恍惚とした表情で両腕を広げた。
そうして、自らの演出した「死」が、観客の心を陶酔させていく様を賛美する。
「さあ、まずは一人。」
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