■ロムウェル - 05「モータル・マリスとヒューマン・チェア その3」

 

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昼間でさえ薄暗い、陽光に嫌われた領地に、夜が訪れる。

その宵闇は、地上のそれと比べられたものではなく、
人々が手にした松明の炎だけが、
うっすらと、祭場の輪郭を際立たせていた。

闇に眼が慣れてくると、やがて。
松明を手にした人々の表情も見える。

期待、高揚、そして僅かばかりの恐怖。
彼らはこれから「選ばれる」のだ。

祭事の工程は、まず「生贄」を選別することから始まる。
領民は皆、ホーエンツォレルン家の領内にある大祭場に集められ、
そこで祭事の時を待つ。

白鴉をモチーフにしているように思われる礼装に身を包んだ、強壮な祭司たち。
彼らはホーエンツォレルン家の使用人である。
彼らは皆その手に、多くの白枝が納められた筒を持っている。
領民たちは、その筒から一本の白枝を、無作為に選ぶ。

そして―――、

『ちょい待ち!』

澄んだ清水のような声色が、闇に包まれた祭場に木霊した。
司祭長、フロール・ホーエンツォレルンが、その方向に顔を向ける。
かげりも動揺もない、凍り付いた炎のような、その眼差しの先。

宵闇に同化するような黒装束。
そして頭髪も同様に闇に溶け、彼女の輪郭を失わせていた。
だが、その足元にすらりと伸びた白い脚と、学生服に引かれた白線。
そして白と黒、横縞(ストライプ)の膝下装(ハイソックス)が、彼女の存在をまざまざと示す。

『あたしも引かせてもらってもイイかなぁ。』

マリスは外来客でありながら、この祭事に「領民側」として参加することを許されていた。

―――領民ばかりでは「映え」がない。
ザントファルツの民でさえ、この祭事に「加担した」という事実は、
この興行を世界的に知らしめ、より鮮やかなものにするだろう、というような世迷言を。
ロムウェルが提案したからだ。
無論、マリスの入れ知恵によって。

ホーエンツォレルン姉妹にとってそれは、ザントファルツの「賛意」を得たに等しい提案だった。
伝聞が広まり、交通が整備され、より多くの観光客がカーロの森を訪れれば、
彼女らの願い、そして領民たちの望みは、果てしなく拡張されていくだろう。

故に認めた「例外」が、今、このようにして声を挙げた。

フロールはその行為を、一瞬は怪訝に思ったが、しかし薄笑って近づいていく。

「ザントファルツの従者殿。ええ、困ることは何もありません。
 それでは、貴女からお引きなさい。
 既に伝えられている通り、"紅"を引けば貴女が選ばれる。」

祭事における生贄が「くじ引き」によって定められていると知った時、
ロムウェルは、そのあまりにもずさんな方法に眩暈さえ覚えた。
だが、一方でマリスはそれを「妥当」な方法だと感じていた。

穴だらけ。ズルし放題。だが、そういう方が良い。
それでも選ばれてしまうのは「愚か者」だ。
この方法は、犠牲になる領民をきっちりと「選別」している。
益なき愚者を間引き、興行の種に変えている。

だからこそ、こんな方法で「割り込まれる」とは思いもよらなかったのだろう。

一本の白枝を引いたマリスは、
それを握り込む。折れるほどに強く。

「どうしました? 枝先を見せなさい。」

ひとつの危険を予感しながら告げるフロールの目の前で、
ぱきり、と小気味の良い音を経てて、白枝は折れた。

領民たちがマリスを囲み、手にした松明の火が照らす中。

マリスの広げた掌の上で、
折れた白枝はそれを傷つけ、
鮮血を滲ませていた。

『引いたぜ。
 "紅"をよ。』

周囲でどよめく領民たちの声色を聞き、マリスは確信した。
同時にフロールは表情を隠しきれなくなり、眉間に皺を寄せる。

領民たちから挙がる感嘆の声。
その声色に含まれていたものは、純粋な驚き、そして安堵だ。

選ばれた! こんなにも早く! 
だが不正ではないのか?
いいや、この不正が通れば。この不正さえ通れば。
「もはや自分は選ばれない」。

ホーエンツォレルンの領民はみな、自らの「役得」と引き換えに、
祭事の都度に「選ばれるリスク」を天秤にかけているだけ。
そこに貴族崇拝の実態はなく、彼らはみな、商人か、あるいは博徒の真似事をしているだけだ。

だから彼らは、この不正を支持する。

マリスの推測は、今この瞬間を以て「事実」に変わった。

この薄汚れた民意を。
跳ね返せる支配者など存在しない。
彼らが「犠牲」を否定すれば、
この祭事は、興行として成り立たないのだから。

「…良いでしょう。強運なる者よ。」

フロールは瞳を閉じ、また薄笑う。
そして振り返り、両手を広げ、未だ事態を知らぬ領民や、観劇者たちに向けて宣言する。

「"最期の入植者"の役が定まった!
 今日は我らにとって、記念すべき日になるだろう!
 我々は今宵、砂の都の良き理解者を得たのだから!」

フロールの背後、司祭たちに連れられて木製の祭壇に挙がったマリスの姿が、
いくつもの方向から照らされる。

それは松明の明かりなどではなく、
大渓谷で普遍的に用いられている、強力な指向性の電灯によるものだ。
観客席で落ち着かない様子を見せていたロムウェルは、
この時点で、「祭事」が「興行」に移行したことを直感した。

厳かな雰囲気を手放し、犠牲者の姿をより明確に示したことにより、周囲からは、好奇の声が上がる。
彼らがどのような土地で幅を利かせ、何を求めてここに座っているのかは定かではない、だが。
彼らの期待が、檀上のマリスに注がれていることを肌で感じ、ロムウェルは、怒りを抑えるのに必死になった。

「それでは、"女神"の弔いを始めよう。

 我々が犯した罪を!
 女神の斧を以て罰し!
 次代の豊穣を得るために!」

高らかに宣言したフロールが、まるで道化師のように一礼して、祭壇の影に消える。
すると同時に、マリスを照らしていたライトに赤みがかかり、
祭壇はまるで舞台のように、人為的な凄惨さを着色された。

落雷か、と。
ロムウェルが錯覚するほどに、
激しく先鋭的な弦楽の音が、
祭壇の根元より掻き鳴らされる。

変面楽団。
この祭事を彩る演奏家たち。
それは未だヒトが到達し得ない技術の群れだった。
走れ、走れと焚きつけるような旋律と、
古語でまくしたてられるような声楽に、傍観者たちの歓声が加わる。

今や犠牲を免れた領民たちも、
来たる芳醇な未来を夢想して嬌声を上げ始めた。

そこには、ロムウェルが求めて止まぬ「人々の心を救う狂騒」が木霊していた。
腕を組み、岩のように強張りながらも、ロムウェルはその様相を「理想的である」とさえ思った。
ただひとつ、弱者の犠牲を強いる、という一点に目を瞑りさえすれば。

祭司たちが檀上から去り、そこにはマリスだけが残された。
肝心の彼女は、鳴り響く先鋭的な音楽に、心地よさそうな面持ちで耳を傾け、あまつさえ足踏みまでしている。

そして、ふと、マリスの姿が消える。

ロムウェルは腰を浮かしてその動向を探ろうとしたが、
すぐに瞳に飛び込んできた映像が、ロムウェルの正気を揺るがした。

「千里鏡(クレヤボ)」―――と名付けられたその技術は、
学院が秘匿する異界技術の粋、学徒巫女用の携帯端末にのみ実装されている映写装置だ。
遠くの出来事を、複数の鏡を通して別の場所へと映写する。

ホーエンツォレルン家が一体どのようにして、この技術を獲得したのかは定かではない。
しかし今はそれよりも、祭場に大きく設置されたそれに「映し出されたもの」が問題だ。

暗く冷たい石の壁に囲われた空間に。
閉じ込められたマリスが、鏡を覗き込んでいる。

恐らくは祭壇の「床」が抜けたのだろう。
あれは、地下室だ。

そしてその背後には、マリスの様子とは打って変わって、狼狽える複数人の姿があった。
依然として苛烈な楽曲の鳴り響く祭場に、フロールの声が響く。

「さあ、今宵は4人の入植者たちを、カーロの森に捧げよう!
 より一層の豊穣を願い、それに相応しい慰めを、女神に捧げるのだ!」

思わず立ち上がろうとしたロムウェルは、
しかし画面の向こうのマリスのしぐさをひとつ見て、下唇を噛んだ。

―――マリス、マリスよ。馬鹿だ、わしは。大馬鹿者だった。
殺しもできぬ、止めることもできぬ。弱者のくせに「解決」など、望んだことが間違いだった。
確かにわしはここに来て、興行の作法を得た。未だ知り得ぬ熱狂の技を知った。大きな収穫だ。
だがそれは、誰かを犠牲にして得るようなものでは、断じてない!

席を立ち、駆け出したロムウェルの脳裏に、マリスとの会話が蘇る。

『旦那。いっこだけサインを決めとく。
 私がこうして、お口の前にバッテンを作ったらよ。
 そら「おしまい」ってことだ。犠牲者を出さずに…って話がな。
 ムリだと思ったら、こうして見せる。
 したら旦那も覚悟を決めな。
 最悪の場合、私を見捨てること。これだけは絶対に守れ。』

ロムウェルがその場を走り去ったことに気づく者はいない。
祭場は、犠牲を望む嬌声と、血熱を求める狂騒に包まれ、
そうしてついに―――「興行」が始まった。

映し出された画面の中のマリスは、口元に作ったバッテンを解くと、
ぺろ、と小さく舌を出して笑った後、地下室に闇に溶けていった。

===

冷たい暗闇の中に響くものは、自らの吐息だけ。

―――男は呪う。自らの運命の酷薄さを。

石造りの床に置いた「てのひら」が、火傷してしまいそうなほどに冷たい。
彼は「その手」で引いたのだ。

1年に1度、8万人の領民の中からたった4人。
2万分の1。
0.005%のトンネルをくぐって―――、
それで終わり。

幸福に満ちた、新しい1年が始まる。
はずだった。

しかし、引いた枝先の色は"紅"。

何故、どうして。
なんで自分が―――、

かつん、と。

暗闇に浸透した音が、
彼の背筋をなぞり上げる。

思わず呑み込んだ吐息の冷たさに、咳き込んでしまいそうになる。
ダメだ、ダメだ、息を殺せ。

―――ああ、どうか、神(ディエクス)よ。

我に閃きを与えたまえ。
この手に技を授け、呪われた運命から遠ざけたまえ。

「女神の弔い」は、ただの残酷劇ではない。

彼だって昨年、そして一昨年は、観客席から「それ」を見ていたのだ。

入植者によって殺された女神、ラウラは復讐に燃えている。
彼らはそれを慰めるため、この地下墓地に落とされた。

慰める方法は二つ。

ひとつは、ラウラの斧にかかり、その鮮血を以て女神の喉を潤すこと。
そしてもうひとつは、入植者のした通りに女神を切り裂き、その血によって森の土を潤わせること。

どちらでもいい。
どちらでもいいのだ。

血を見るのも。
血を流すのも。
どちらだっていい。

それが儀式のルールだ。

4人の入植者か。
女神か。

どちらかが死に果てるまで、儀式は続く。

暗闇の中で、彼は握りしめた。
儀式のため、彼に用意された唯一のもの。

それは枝折りのための手斧(ハチェット)だ。

かつて入植者の一人がそうしたように、
彼もそれを使って、ラウラの肢体を切り裂けばいい。

ああ、ああ、やってやるさ。
やるしかないんだ。

例え相手が女神ラウラであっても、
例えその役割を担うのが、
自らの主君、ホーエンツォレルンの領主であっても―――!

徐々に近づいてくる、石床を鳴らす音。
ゆるやかなその歩み、示威的な金属音。
他の入植者ではないことは確かだ。

金属質な道具を引き摺る音。

間違いなく、「彼女」の足音だ。

やるしかない。
そうだ―――俺は、技巧(ディエクス)の子だ。
踏み込んで、あの華奢な胴体を、叩き砕く。それだけ。

ああ…「加護」だ!

見えるぞ、暗闇の中で、床が見える。壁が見える。
命を求める俺の意志に、タイドが呼応している。

震えも止まった。未来も見えた。
聞こえないものなんて、無い―――。

そうして「彼」は、ついに相対した。
石室の入り口に現れた「それ」と。

「苛烈にして淑やかなる風情」そのものが着飾り、輪郭を得たような。
白く透き通る肌に、映り込むようなワインレッドの長髪と、
神(タイド)が「そう造り替えたかのよう」に完璧な顔かたちを持った娘。

ラウラ・ホーエンツォレルン。

前領主が死去して以来、女神と同じ名を以てその役割を務める、新たなる領主。

麗しきその姿は「狩りの神性」をイメージした装束に包まれている。

鮮血色のスカートに入れられたスリットから、
まるで人間味の無い、真白い大腿が覗いている。
血霞のように繊細なヴェールの向こうで、硝子色の瞳が光っている。

女神の礼装でありながら、復讐者の戦装束。
それでいて、あるいは、冥婚のための花嫁衣装。

ラウラは人差し指を、自らの赤い唇に押し当て、歯の間から息を吹いた。

彼女は観客に告げている。
「上映中は御静かに。
 だけど、泣いたり笑ったりは大歓迎。」

彼女は、左手で引き摺っていた手斧の鎌首をもたげる。
そして、口元から下ろした右手で背中から、もう一振りの手斧を取り出した。

斧は、カーロの森に住む者すべてが扱うべき道具だ。
その用途は、伐採、加工、侵略、儀式。

男の視界が揺らぐ。
少し前から「聞こえすぎる耳」によって、その意識は痛めつけられていた。

地上から、歓声が聞こえる。
この石室を覗き見て、流血の期待に沸き立つ人々の、歓声が。
ああ、やめろ、笑うな…やめろ…!

嗚呼! と。

短い雄叫びのような。
あるいは悲鳴のような声を挙げて。

男は倒れ込むように駆け出した。
ハチェットを短く握りしめ、暗闇の中を、その鮮烈な「紅」の下へ。

右下から左上へ。
逆袈裟に斬り上げようとしたハチェットが、しかしその軌道を遮られて火花を散らす。

鋼鉄の踵(かかと)によって踏み潰されたハチェットの刃が、石室の床に撃ち込まれる。

手を―――、

離さなければ、

斬り飛ばされていたであろう、その腕で、

男は自らの顔の前に、
あまりにも脆弱な素手の守りを作り出すことしかできなかった。

それは声だったのか、切り裂かれた喉から漏れた空気だったのか。

男を縦一本に斬り結んだ女神の手斧は、
彼の両指をバラバラに分解し、眼球を叩き割り、口腔を裂き、喉首を砕き、
鎖骨を分断し、そして肋骨を破壊した。
そうして、男の体内で弾け回った骨が、その内臓をズタズタに切り裂いて、彼の運命を確定させる。

だめだ、と。

思ったことさえ、既に手遅れだった。

たすけて、と。

声に出すことさえ、遅れて叶わなかった。

振り上げ、振り下ろす。

ホーエンツォレルンの領民にとって、幾度となく繰り返されてきたその動作によって。
あまりにも素早く、力強く、そして鮮烈な、その動作によって。

女神は、彼の生命を伐採した。

壊れたポンプのようになって、際限なく血を吐き出し始めた彼の喉元を照らす赤い光。
指向性を持たされた電灯。石室に備えられていた機能が、その死をライトアップする。

歓声が。狂騒が。乱れ飛んで地上を震わせる。

「観客」はその全てを見ていた。
地下墓地のすべてを映し出す鏡によって。

この価値ある生贄を。

この価値ある死を。

すべて余すところなく、消費した。

変面楽団の演奏は止まらない。
ばかりか速度と熱を増していく。
まだ佳境(サビ)ですらない。

フロールは殺戮の間、薄く編まれた七色のヴェールを身につけ、躍るように舞台上を跳ね、一部の観客たちの情欲を満足させると同時に、
その腕で、その脚で、親愛なる姉の活躍を「補助」していた。

ラウラの手を介して収穫された男の命が、その鼓動の終わりが、フロールの手にも伝わってくる。
それがあまりにも暖かく、また豊かであったために。

フロールは、哀れむように悦び、恍惚とした表情で両腕を広げた。
そうして、自らの演出した「死」が、観客の心を陶酔させていく様を賛美する。

「さあ、まずは一人。」

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