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時は、ロムウェルがカーロの森に到着した夜にまで遡る。
「奴ら、心臓の音が小さすぎる。」
マリスは椅子の上で片膝を立て、左手の爪に紺碧色の塗料を塗りながら答えた。
「使用人。そしてあの、赤い髪の女もそうだ。
何故か? 心臓が小さいから。
何故か? 必要な血流量が少ないから。
何故か? さて分からんけど、ヒトでないことだけは間違いない。
この屋敷にいる真っ当な生き物は、あたしたちを除けば、恐らくあのフロールとかいう"野郎"だけだ。
可能か? 可能さ。
奴は学徒巫女(オラクル)なんだろ? なら可能さ。あたしたちは何でもできる。
知っているなら全てが可能だ。奴は生まれながらに知っていたのさ、
「人間を造る方法」。それも、とびきりハイクオリティなやつを。
あるいは魂をねつ造し、死体に封じて、まるで人間のようにする方法を。
もしくは、ヒトで調度品を造る方法を、さ。」
ロムウェルの額に汗が滲む。
何度相対しても、彼女らの「叡智」がもたらす異常を呑み込むには時間がかかった。
今となっては、この屋敷にあるすべてのものが、そのおぞましき創作と、無縁ではないように感じられる。
マリスが膝を立てている椅子。
今、自分が腰かけているベッド。
壁に飾られた、鹿のようにも見えるが、決してそうではない革製のオブジェクト。
そのどれもが―――、あるいは興行によって犠牲となった人々の、成れの果て、だとでも言うのか。
「だが、彼女の…いや、彼の姉、あのラウラでさえも、人形であると言うのならば、それは…その、何故だ?
ホーエンツォレルンに富をもたらそうとして…それで、本当に必要だったのだろうか…そんなやり方が…。」
ロムウェルの見当違いな疑問を鼻で笑ったマリスは、
塗料をポーチに仕舞いながら、懇切丁寧に答えた。
「旦那はさ、本当に憎い相手がいて、そいつをブッ殺してえと思った時、どうする?
その太い腕で殴り殺すか、あるいはその懐から銭を出して、人を雇ってブッ殺すか、どっちかだろ?
その実、他にいくらでも方法があるにせよ、だ。
目的のために自分の能力を使うことは、とても気持ち良くて、そして自然なことなんだ。
だからフロールもそうなんだろうさ。ただ「領地を繁栄させる」という目的がある。
そして、奴には「人を材料にして人を造る」能力がある。
だからそれを駆使して、目的を達成しようと思った。
人形使いは、金を稼ぐために人形劇をやるのさ。
トーゼンだろ?」
―――。
この場所も、その興行も、全ては自然で、ありのまま。
それを疎んでいた者も、恐れていた者も、今ではもういない。
フロールが真っ当であることを証明する理屈は多くあれど、
彼の行いを真っ向から非難する者は、もういない。
死体を破壊し、継いで接ぎ、仮初の心臓を封じて動かし、森を彩る。
それがフロールにできる唯一のこと。
望まれた唯一のこと。
だから彼は、それを続けているだけ。
エドワード・ホーエンツォレルンは、自らの天性を以て、自らの使命を果たしている。
自らの精神を、森の女神(ラウラ)と領主(フロール)に分け、そして。
人々に豊かな暮らしと、幸福を与えるために。
ロムウェルは、脂汗にまみれた拳を握る。
最早どのような言葉を尽くしても、この地における彼の「神性」を否定することは、不可能であるように感じられた。
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生贄に求められるのは鮮度だけ。
「命を持ち、そして命に執着する。」
その佇まいのみが死の本質を浮き彫りにし、そこに秘められた美しさを描き出す。
故に、その犠牲に老若の区別なく。
故に、その演出に男女の貴賤なく。
女神(ラウラ)の手斧は全てを選ぶ。
石室の隅に座し、震え、咽び泣きながら「神への謝罪」を続ける、その供物が、
女性であるということも、若年であるということも、等しく、彼女の手斧を妨げる要素にはならない。
そして抗うことは認められているのだから、
狩りの女神と同様に、入植者もまた斧を振るえばいい。
その暗がりに恐れを知らず、
かの女神に畏怖を知らず、
血の匂いに我を忘れず、
死の気配に凍てつくことなく、
立ち向かえる者をこそ、
観客たちは求めている。
そして同様に、
暗がりを恐れ、
女神の怒りに脅え、
血に慄き、
死に呑まれる。
哀れな生贄の姿もまた、
観客たちは求めている。
たおやかに笑う、女神のくちびるに引かれたルージュ。
エドワード・ホーエンツォレルンから切り離されたその本質。
彼女は再び手斧を振り上げ、そして―――、
石室の闇を、散った火花が僅かに照らし、
その「紺碧色」が光を受けて輝く。
隅で蹲った少女の悲鳴が響き、そしてラウラの命無き眼が、「かの者」へと向けられる。
女神と入植者の間に立つ者。
それは、本来この儀式に介在し得ない第三者。
手斧を持たぬのだから、ホーエンツォレルンの民ではない。
しかし女神に抗うのだから、儀式の参加者であることもまた、違えようがない。
殺戮を期待していた観衆の視線が、その奇異なる乱入者へと注がれていく。
薄闇に溶ける学徒服。
棚引く純白のストール。
そして邪(よこしま)なるハイソックス。
事態の急転を受けて、石室内の電灯が慌てたように点灯する。
そして光線が重なり、その姿を映し出す。
それは右脚を高々と上げて、漆黒の革靴(ローファー)で女神の手斧を蹴り抜いていた。
マリスは、女神の手に握られた手斧が、既に温かな血に塗れているのを見て薄笑う。
『…あら、もう一人死んでんじゃん。こりゃ旦那が荒れちまうな。』
手斧の刃を側面から正確に蹴り抜かれ、未だ手にその振動を残したまま。
ラウラは「それ」の解析を始めた。
…アイゼンシュタイン卿の従者? 選ばれた4人目?
暗闇にあってあの正確さは何だ? そしてこの威力は何だ?
しかし、ルールは不変。ならば―――、
「伐採!」
機械仕掛けの嬌声と共に伸ばされた、ラウラの左腕に手斧はない。
その代わりに爪があった。
鋭利に砥がれ、血のマニキュアを塗られた貴人の指先。
首筋に辿り着き、血管に引っかかればそれでヒトを絶命させ得る死の棘。
だが、マリスはそれを「払いのけた」。
何の気なく、緊張なく、薙ぐようにして。
ラウラの左腕、その手の甲に。
マリスの左腕、その手の甲がぴたりと吸いつき、そのまま払われた。
そして祭壇の上、フロールの舞踊が止まる。
ラウラを通じて見ていた左眼の景色が上下逆転する。
「…ッ!?」
一瞬の緊張、その後にフロールが理解した状況は、
自らが操るラウラが、上下逆さまになっているという事実。
見下ろすマリスの紺碧色の瞳が、
ラウラを通じて、フロールの瞳を凝視する。
ラウラの両腕がバネのように跳ね、その体勢を翻すと同時に、それまでいた地点の床をローファーが砕く。
変面楽団の激奏は佳境(サビ)を迎え、
そうしてついに、照らされた石室で両者が対面する。
自らの肉体と精神を二つに分けた殺人領主、エドワード・ホーエンツォレルン。
あるいは「人造」の学徒巫女、人間椅子(ヒューマン・チェア)。
住所不定、無職、理由あって本名不明。学徒巫女。
仮に呼ぶとすれば、致死性の悪意(モータル・マリス)。
互いに「倫理と無縁」の学徒巫女同士。
歓声が地底までも揺らす。
もはや、観劇する全ての人々が「劇的な死」を望んでいる。
ここは王都ではない。
教団も、王の継承も、タイドも、その一切が関係ない。
しかし、死神は告げた。
今宵に限り、ここを「闘技場(コロセウム)」とする。