■ロムウェル - 09「モータル・マリスとヒューマン・チェア その6」

 

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―――まだ大丈夫、大丈夫だ。
髄液が逆流を起こしていなければ大丈夫。
コアユニットに浸水していなければ問題ない。
漏電しているかどうかだ。

そんな、馬鹿な!
血か…? 生贄の? こんなものが、嘘だ、こんなイオン濃度の薄い液体が。
どこだ? どこからこんな電圧が?
なんて確率だ、ふざけるな、こんな―――!

「よくも…よくも…!」

抱き起こすでなく、しがみ付くように。
亡き姉の上体を抱えながら、フロールの肩が怒りに震える。

「よくも姉さんを…!
 良くも父さんを…!
 好くも母さんを…!
 善くも叔父さんを…!」

殺したな―――!

怨嗟の声を上げ、勢いよく振り返ったフロールの顔面を、しかし鋼鉄のローファーが叩き潰す。そうして彼の体を、既に残骸となった彼の姉ごと、もう一度壁面へと叩きつけた。

あれだけ頑丈だったラウラの肢体とは真逆に、
フロールの頭蓋はたったの一撃で結合を失い、割れた水風船のように夥しい量の血を巻き散らす。
眼の奥から、鼻の奥から、喉の奥から。
およそ機械仕掛けのそれとは異なる体液を噴出させ、その瞳は焦点を失う。

『なァにが"よくも"だ。
 ルールを守った楽しい決闘だったろうが。
 でもってそいつは死体の"寄せ集め"だ。
 "殺した"んじゃねえ"壊した"んだよ。』

悪びれもなく、むしろ嘲るように言い放ったマリスは、ローファーの爪先を整えながら臨戦の構えを解く。
彼女は今の一合で理解した。フロールは「雑魚」だ。術理を行使する相手ではない、と。

フロールは、ラウラの末期に間に合わなかったようだ。
先の一撃で、女神は完全に絶命したらしい。
今では微動だにせぬ鉄塊と成り果てて、冷たい石室の床に転がっている。

『さて、フロール・ホーエンツォレルン。
 儀式の最中に踏み入ったんだから、当然お前も"参加者"だ。』

その言葉に応えるように、充血した眼を見開き、喀血しながら意識を取り戻す。
フロールはまだ、事切れてはいない。

顔の左半分を損傷し、特に、硝子の義眼をはめ込んでいた眼孔こそ無惨に潰れているが、それでも尚、残った右眼でマリスを睨みつけている。
砕けるほどに噛み締めた、奥歯が軋んでまだ怨嗟を絞り出そうとしている。

マリスはその様子を「うすら寒い三文芝居」だと感じ、心底うんざりしながら言った。

『人間モドキが、アホくせえ。
 そういう"情"の真似事は、あたしらには必要ねえんだ。』

「…か、家族は…みんな、僕を…あい、してる、と…言ったんだ…。
 僕の…さ、才能を…ちからを…天からの、贈り物、だと…!」

『それがアホくせえって言ってんだよ。
 いいかクソボケ、人間どもの、分からんものに対する反応は二つ。
 一つ、くせえと分かってるが美味いから喰う。二つ、くせえから捨てる。
 お前の場合は前者だ。理解も、共感も、得られないのに愛だ?
 バカが。"私達(オラクル)"と人間は、根っから違う生き物だ。
 こんな田舎の隅に引きこもってるから、そんなことも分かってねえ。』

そこまで言い切って、思わず熱が入ったことに小さく舌を打つ。
マリスの脳裏に、拒絶と迫害の記憶が浮かんですぐに消える。

『悪いがテメエのことを哀れだとも愚かだとも思わねえ。
 突っ伏して死にな、バカどもの血が染み込んだこの床に。』

かつんかつんと音を経て、抜き身の殺意が歩み寄る。
もはや先ほどまでの熱狂も喪われ、観客は、ただ目の前で繰り広げられる未知の残酷劇を見守る他にない。
それをエンターテイメントとして受け取るには、あまりにも"度"が過ぎていた。
ホーエンツォレルンの花、女神ラウラが叩き壊されて鉄骨を露わにし、
そして今、もう一輪の華、領主フロールがこれから破壊される。

だとして、来年から、一体誰がこの興行を取り仕切るのか?
自分たちの利益は、一体どの貴族によって保証されるのか?

今を以て「正常さ」を取り戻したホーエンツォレルン領に重い沈黙が敷かれ、
そうして、死刑執行の時が訪れる。

「お前をっ…! 殺すっ…!
 ぜったい、ぜったいにっ…!
 姉さんを治して…そして…!」

泣き叫ぶフロールを鼻で笑い、そして振り上げられる脚斧。
あたかも、貴族を誅する断頭台のようにして。

ところがマリスは、切れ長の眼を細めて、その執行を留まった。
緩やかに爪先を降ろし、呆れるような、哀れむような、それでいてどこか楽しげな面持ちで、その来訪者を歓迎する。

そして来訪者が挙げた声は、緊迫していながらもどこか的外れな熱量で、
マリスのものとも、フロールのものとも違う、およそ繊細さや華麗さとは無縁の声色だった。

「勝負あった!!
 今宵の祭儀は、一切これまでとする!!」

石室のモニタリングを通じ、全ての観客に聴こえる大声で、ロムウェル・アイゼンシュタインが叫びたてる。
そしてマリスの瞳を見据えた後、まだ息のある参加者の下に、救命のため、急ぎ駆け寄っていった。

そうしてその場には、暴力の行く先を失ったマリスと、
肩を震わせて激しく嗚咽するフロールだけが残った。

―――なんて力任せの幕引き。
差し水にも程がある。
しかもアイコンタクトで、何か伝えたつもりでいやがる。

殺すな、と。
そういうことか? フロールを。
それでどうする。
こいつを誘拐して、ザントファルツに連れて帰ろうってか。

全く分からない。
ロムウェル・アイゼンシュタインの考えていることは、
いつだってあたしの理解から遠い。
しかし、旦那がああいう眼をしたからには、そういうことなんだろう。

…あたしは"前例"を知っている。

世界の誰からも見捨てられた、哀れで愚かな人間モドキの怪物を。
死と暴力の「るつぼ」に生息する、あたしたちのようなモノを。
暖かい陽光の下に連れ帰り、時間をかけて、人間と見紛うまでに生育する。

極めて悪趣味な蒐集趣味。
だけど、それがあったから、あたしは今ここにいる。

『フロール!』

姉の亡骸を抱えて泣く、今にして見れば哀れな少年の背中に、マリスは声をかける。
それでも彼が微動だに反応しないので、歩み寄ってその襟を乱暴に掴み上げた。

『フロール…いや、エドワード・ホーエンツォレルン。
 ロムウェルの旦那はこんな"興行"、認めねえとよ。
 領主としてのお前の役目もこれでおしまい。死に時だ。』

激情は冷めぬまま、しかし痛みと恐怖を自覚したのか。
フロールは、ただ泣くことしかできないようだった。
マリスの恫喝は続く。

『だが、てめえは運がいい。
 てめえは野郎だが、巫女(オラクル)だ。
 あたしたち商隊は、お前の命を買い取ることに決めた。』

その言葉の意味を、理解してか、そうでないのか。
フロールは一度大きく鼻をすすると、マリスの眼を見た。

「ぼくは、領主なんだ、この森を…。」

『いや、もう違う。
 お前が選べるのは、逃げようとして死ぬか、諦めて自分を売るか、どっちかだ。
 どっちかひとつだけだ。

 だが、まァ…死ぬ方がオススメだ。
 あたしに面倒がなくて済むし、お前もあの世で家族に会えるかも知れねえしな。』

その言葉に眉をひそめて、フロールは悲しげに呟く。

「…あの世なんて、無いよ。
 死んだら…それで終わりだ。
 肉と熱を失ったら…ヒトは、それで…終わりなんだ。」

『…なんだ、知ってんじゃねえか。』

フロールの襟首を乱雑に手放し、マリスは彼の判断を尊重する。
生殺与奪の権利を握られ、祭儀の熱狂が冷める瞬間を自覚したフロールに、
もはや貴族としての神威はない。

あれほど整然としていたモノクロの頭髪は乱れ、
顔は負傷して血にまみれ、纏っていた薄く白いドレスを汚している。
それでも未だ、壁際で損壊して横たわるラウラに視線をやり、
フロールは何かを呟いていた。

「―――姉さん、ごめんね、きっと、絶対に…。」

その様子を見て見ぬフリしながら、マリスはもう一度だけ、ローファーの先を床で叩く。

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―――此度の遠征、成果は上々。
買い付けたものは、人体科学、未知の技術に精通した学徒巫女、一人。
そして新たに請け負った仕事は、旧ホーエンツォレルン領の運営再建業務。
これでザントファルツは「林業」までも手に入れたワケだ。

帰路の馬車に揺られながら、マリスは思い出す。
極東の港町でロムウェルと出会い、そして彼から「生きる目的」を拝領した時のことを。
彼はマリスに命令した。「ロムウェル・アイゼンシュタインを守れ」と。
その時、マリスは一つの疑問を抱き、それをシンプルに訊ねた。

『…あんたを何から守るってんだ?
 腕っぷしはあたしほどじゃないが、あんたは権威や財力で身を固めることができる。
 それにあんたは商人だ。敵を作らないやり方は、誰より熟知しているはずだ。

 そんなあんたの"敵"って、一体誰だ?』

そう返したマリスに対して。
ロムウェルは、眉をひそめ、脂汗をかきながら、言った。

「…おぬしら学徒巫女の智慧、その価値に目が眩み、悪用しようとする者。
 そういった者が現れた時、学徒巫女として、学徒巫女を守るために、その者を殺して欲しい。」

そして続けた。

「もしも、わしがそうなってしまった時には、わしを殺して欲しいのだ…。」

心底から怯えたように言葉を紡いだロムウェルの、丸まった背中をありありと思い出せる。

剣の持ち方を誤るのが怖いから、間違えた時には自分を殺してくれ、という弱気で狂った命勘定。
だのに剣を買い集めること、それを使うこと自体はやめないという強欲さ。

マリスが、ロムウェルという人間を理解したのは、この時だ。
同時に、自分が彼にとっての「ただ一本の剣」になり、勝手に動いて敵を斬り伏せれば、彼が誤ることはないだろう、と考えたのもこの時だ。

過去を思案することから戻ったマリスは、同じ馬車の中で、小さな人形を撫で続ける少年に声をかける。

『おい、エドワード。』

声をかけられた少年は、全く反応を示さない。
彼は虚ろな眼で、手元の人形を眺めたまま。
血の滲んだ眼帯が痛々しい。

『…フロール!』

そして、その名前で呼ばれて初めて、少年は憎らしげな視線をマリスに向けた。

『あたしら、これからは"ご学友"だ。
 …仲良くやろうぜ。』

悪びれのないマリスの言葉に対して、フロールはすぐに視線を外して俯いた。

「…黙れ。
 姉さんを殺したこと、僕は絶対に許さない。」

嫌悪、拒絶。
だが、本質的な否定ではない。

敗北の熱を渓谷の夜風に冷やされて、もうしばらく経つ。
フロールは己の立場を理解していた。

生きてさえいれば、いくらでも幻想は打ち直せるということ。
彼が真に姉を喪わずに済んだのは、その命をロムウェルが拾い上げたから、ということ。

そして、今後はそのロムウェルの庇護の下で生きていく。
つまり、このモータル・マリスとも、いわば"学友"になる、ということ。

分かっている。分かっていた。
それでも、まだ記憶が鮮明だ。
ほんの数時間前に振るわれた、マリスの暴力が忘れられない。

きっと一生、忘れない。

フロールの中に溜まっていく、鬱屈した怨嗟を感じながら、マリスは薄ら笑う。

―――そうさ、それでいい。
学徒巫女を蒐集し、来たる破滅に備えるという旦那の目的。
その過程で生じる傷も、痛みも、怨みも、死も。
何もかも自分に向かえばいい。
そうすれば旦那が呪われることはない。間違えることはない。

誰かを殺して、何かを壊して、それが実現できるなら素晴らしい。
自分が持っている才能を使って、目的を達成するのは自然なこと。

だから、そう。
あたしは、他の学徒巫女とは違う。
違っても、良いんだ―――。

「…君は、"もの"を壊す天才だね。」

その言葉を耳にして、マリスは一度大きく瞬きをした。
聞き違いではなさそうだ。フロールはマリスに話しかけていた。
その口調と落ち着きぶりは、領主だった頃の雰囲気を取り戻している。
それでいて、手中の肉親を"もの"と呼ばわったこと。
熱狂の冷めたフロールは、意外な理性を伴ってマリスと会話を始めた。

「…姉さんをあんな風にしたのは、君がはじめてだ。
 領民の誰も、敵わなかったのに。」

『は、手応えなんかまるでなかったぜ。
 次はもう少し頑丈に造りな。』

「…ああ、そうするよ。」

先ほどまでの憎悪とは離れ、どこか神妙な面持ちで、フロールは呟いた。
その様子は余りにも毒気ない。
それが不自然で、どうにも落ち着かないため、マリスは一つ罵倒でもくれてやろうと考えた。
彼の憎しみが矛先を変える前に、それをもう一度、自分に向けよう、と。
しかし、その言葉を編むよりも早く、フロールが話し始めた。

「君は乱暴で、下品で、あまり好ましくない"人間"だが、それでも君の才能は、素晴らしい。」

『…は?』

「"才能は愛すべきもの"。
 これはホーエンツォレルンの家訓なんだ。」

フロールは少女の人形を床に置くと、自らの膝を抱いて背を丸めた。
そして一度、小さく鼻をすする。
この一晩の戦いで、悲しみと、怒りと、恐怖とで、既に涙は枯れていたが。
最期に、そんな家訓だけを遺した家族への哀愁が、彼の涙腺を一押しした。

フロールは、涙声で語る。

「…マリス、とか言ったな。
 姉さんが治るまで、君が僕の家族になってくれ。」

呆気にとられたことと、怖気づいたことと、それから…。
いくつかの大きな感情に呑まれて、マリスの口は何かを言おうとしたが、上手くまとまらなかった。

『…知らねえよ、旦那に頼めよ、そんなこと。
 気持ち悪ぃ…。』

口元に手をあてて、覆い隠したものは、吐き気ではない。
殺しの技を。破壊の才を。
そんな風に褒められたのは、初めてだったから。
マリスは、恐らくにやけてしまった口元を隠すために手をあてたのだった。

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「モータル・マリスとヒューマン・チェア」
おわり