その色は「陽光」によく似ていた。
6段階に分別されるタイドの「濃度」。
この斜陽の塔において、それは既に計測不能なものへと変じていた。
その証左として、通常三色の輝きを放つ筈のタイドは、
今一色の「陽」と化して、祭壇を駆け巡っている。
通常のヒトであれば、如何にタイドに愛された者であれ、
この場所で数秒と呼吸を持続することはできない。
何せ全てのタイドが燃えている。
吸い込む大気でさえ、肺を焦がす程に熱かった。
この場所に立つことを許された者は、マニピュレーターでなければ、あるいは、
この焦熱ですらダメージにならないほどに「壮健」な者、だけだろう。
ならば彼にはその資格がある。
今この場所で、殺意の代行者となって傀儡王に挑む者。
その獣毛、一本一本の先にまで。
赤黒い、暴力的なタイドが満ちていた。
あらゆる武器が燃えていく。
鉄でさえ熔け解れて落ちていく。
そのような戦場で、人狼テレンスが用いた戦闘術は、
これまで彼と相対してきた誰もが、見たことのない殺法。
「体術」だった。
戦場における「術理」とは。
劣る者が、勝る者に迫るための方法である。
テレンスの尊ぶ「戦士」とは、その「術理」を用いて強者へと挑む者を指す。
―――聖女アンジェラ、彼女の資質は素晴らしかった。
天性の技術、タイドが授けた「殺人史」の全て。
それを操る肉体の天性もまた無類であり、それを従える精神の狡猾さは極まっていた。
そして何より、「暴力」に絶対的な信頼を置き、万能の手法だと信じていたこと。
彼女こそ、まさに「至高の殺人鬼」だった。
―――庭師のハイネ、彼も記憶に鮮烈だ。
自らの特性を活かす武器を選び、その熟達に努め、あらゆる搦め手を習熟し、
そして、自身が「世界で最弱の生き物である」と疑わないその気性。
常に「挑む者」としての備えを持ち、矜持を抱き、そして生き残ることを諦めないもの。
彼こそ、まさに「究極の獣」だった。
どちらも優秀な戦士だった。
この「嵐(わたし)」を前にして、決然たる覚悟で、臆することなく、
磨き上げた術理を叩きつけてきた。
私は彼らを忘れない。
そうして、今。
そうだ。
五年前もそう。十年前も。二十年前も。
百年前から、ずっと、ずっと、ずっと。
ずっと続く「淘汰(たたかい)」の果てに。
私の前に立つ貴方こそ。「そう」なのですね。
私が追い求めてきた「答え」なのですね。
ルーセント、貴方こそ。
===
五年前、あの「コロセウム」の砂地で、この人狼の瞳に宿る炎を最初に見た時。
「こういうものがいるんだ」と、興味深く感じたことを、ルーセントは覚えている。
この怪物は戦いの中に身を置いて、
何年と、何十年と、何百年と、戦い続け―――、
そしてどの地点で、
「狂ってしまったんだろう」
というようなことを、ルーセントは考えた。
まるで芯のない、手心を加えるばかりの戦法。
自分の腕よりも細い剣や槍を振るい、
自分の脚よりも柔らかい斧や棒を用い、
自分の暴力よりも、遥かに「なまくら」な術理を操り。
何を見ようとしているのか。
何を得ようとしているのか。
「ヒトの複雑さ」がそこにあるのだとしたら、
到底理解できるものではない、と。
当時のルーセントは感じたが、しかし、
結局のところあれからずっと、
この怪物を越える「理解不能」なものは、彼の前に現れることはなかった。
だからきっと、世界でいちばん狂っているのは、
恐らく「これ」なのだろう。
ルーセントはそう結論し、以降、彼を理解することを諦めた。
人狼ではない。ただの狂犬だ。
ヒトの要素など、どこにもない。
「これ」は只、戦場の術理に魅了されて気を違えた、
災いのようなものに過ぎないのだろう、と。
===
柔らかに握られた二指拳が、正中線を駆け上がるようにして人狼に撃ち込まれる。
打点は四、そのいずれも、ヒトの生体龍脈、神経回路を司る要点である。
だが当然、それが有効打であるなどと、ルーセントは考えていない。
針金のような獣毛、金属よりも硬く、鎧よりも分厚い皮膚。
そもそも、この人狼が「外傷」というものを負うためには、
特別鋭利な刃先か、あるいは力が一点に集中した矛先が必要だ。
故に、ルーセントの拳打の意図は別にあった。
だがテレンスはその拳を受けるや否や、傷も痛みもないままに、前のめりになった。
がぱ、と音を経てて開かれた狼のアギト、その犬歯に引いた唾液が蒸発する。
そうして、それが「笑っている」のだと気づかれるまでの合間に、
振り下ろされた握り拳、返す爪による裂閃、
地から跳ね上げられるように繰り出された縦の蹴撃とその往復、
背を向けると同時に、横脇から繰り出された、鉄肘による一撃、
から左の裏拳、右の爪撃、もう一度左の裏拳、鋭利な牙による噛みつき、
そして死角から放銃された音速の前蹴り―――を、
全て捌き、ルーセントは戦慄する。
強い、とか。
弱い、とか。
そういう話ではなく。
彼は「総て」なのだと知った。
この星の上で積み上げられてきた、あらゆる戦闘技術の粋。
あらゆる「殺し方」の結晶。
「世界最強の武術家」ではなく、
彼は、この星の「闘争の歴史そのもの」なのだ、と。
だから震えた。
あるいは、彼と同じように。
―――笑った。
体格の差、視界の差を利用して、
ルーセントの掌打は死角の急所へと投げ込まれる。
それを直感して防御を試みた獣腕の袖が、その体毛を巻き込むようにして「握り引かれ」て、巨獣の体躯が宙に舞う。
宙空で眼を見開いた人狼の視界に飛び込んできたものは、
小さな握り拳だ。
天から地へ、直上から直下へと。
足場を失って回転するテレンスの眼球そのものに、
ルーセントの拳が突き刺さり、そのまま床ごと貫き倒す。
人狼が、自重によって崩された体勢を取り戻すまでの一秒間、
倒れ伏した彼の顔面に撃ち込まれた拳の総数は四発、
そして五発目の拳を噛み砕こうとした人狼の顔面が、
横合いから激烈な勢いで蹴り飛ばされる。
まるで舞うようにして振るわれる暴力。
あまりの愉悦にテレンスは、身を翻しながら歓喜の嬌声を挙げた。
―――ああ、ルーセント。
今となっては、この星の未来などどうでもいい。
教えてください、私に。
貴方(人)と私(ヒト)、
その間にはどれほどの差があるのかを―――!
恐らくは誰にも聞かせたことのないであろう声色。
魔獣の如き、深く、甲高い歪な鳴き声を挙げ、餓狼が狂奔の殺意を放つ。
その叫びに対し、後転して間合いを取るルーセント。
だがその刹那、彼我の距離、およそ5メートルの間を、
人狼は「不動のまま」―――、跳んだ。
深く腰を落とし、拳を弓のように弾き絞り、
膂力だけを地に叩きつけ、その反動で自らの肉体を宙へ、敵の下へ。
一発の弾丸のように化して襲い掛かるその手法は、
数刻前、彼がアンジェラとの戦いの中で学んだものだった。
ルーセントの後転、その僅かな「接地際」にある「体勢のロス」を狙い澄ました弾丸。
それは見事にルーセントの胸郭、その中枢へと吸い込まれ、
そして同時に、その背後へと抜け去った。
確かに命中した正拳の手応えと、それでも仕損じたと感じられる手応えを同時に味わいながら、テレンスは喀血して宙に浮いた。
今、術理が人狼を駆逐する。
撃ち込まれた拳は、テレンスのものだ。
撃ち込まれた力も、テレンスのものである。
ただし、それはルーセントの拳を介して、
テレンスの心臓へと撃ち込まれていた。
タイドが世界を循環するように、
その「暴力」は、ルーセントという回路(サーキット)を無駄なく巡り、
その拳を通じ、人狼自身に跳ね返されたのだ。
それは力も、素早さも、賢ささえ必要としない。
柔らかな殺人拳だった。
―――なんという技術、
なんという研鑽―――!
これが―――ッ!!
跳ね返された自身の膂力によって、
宙空に固定されたかのようにのけ反る人狼の、
全身を駆け巡る衝撃が未だ落ち着く場所を持たないままに、
ルーセントが拳を引く、
腰を落とし、狙いを澄まし、
地を蹴り、全身を回路と化し、
槍の矛先にも匹敵する「点」を、
弾丸の軌跡にも匹敵する「線」を、
描いて人狼の心臓を、もう一度撃ち据える。
―――これが、異界の武。
成程、確かに「我々」は浅い。
数百年、戦いを繰り返した程度では、
このような境地には、決して、決して―――。
人狼テレンスが「この星における闘争の化身」だと知った時、
ルーセントが笑った理由は、何も恐怖からではない。
彼が「自分と同じ」であることを、皮肉のように思ったからだ。
未完成のマニピュレーター。月蝕の王子。
あらゆるタイドを喰らい、奪い去る者。
戦えば、戦うほどに。
タイドは際限なく、ルーセントに集積されていった。
それはつまり「異界史」とでも呼ぶべき巨大な書物のページが、
1枚、2枚と復元されていくようなものだった。
そして、こと戦闘に関して言うならば、その集積は既に「終わって」おり、
即ち、ルーセントと戦うことは「彼らの歴史」と戦うに等しいことだった。
この星のヒト史、僅かに数百と余年。
一方でルーセントが保有する「人類史」…その正確な長さを知る者はいないが、
それでも、しかし「彼ら」が研鑽した戦略、戦術、戦法は、
このちっぽけな星の歴史など「指一本」で吹き飛ばすほどの輝きを持っている。
そしてその通り、ルーセントの人差し指は、
人狼の中枢、ヒトの眼では判別できぬ、その「流れ」の終点へと撃ち込まれた。
人狼を不死者たらしめていた「赤き神威」が、
今、最後の一片までも、月蝕の王に簒奪される。
痛みとは熱さであること。
敗北とは甘露であること。
強さとは尊厳であること。
そして、死とは恐怖であることを思い出し、人狼は爆ぜた。
砂上の楼閣に投じられた石のように。
立ち合いの中で幾度となく撃ち込まれた「楔」が、
共鳴して彼の肉体を破壊した。
数百年の時を生き、戦争の中にその身を置き、
戦いに魅せられ、それ以外の全てを、戦い続けることに利用し、
一方でヒトとして、この星に住まう人々の代表者として、
悪しき月蝕の魔王に挑んだ英雄―――、
「戦士たちの主、テリー」は死んだ。
その亡骸は、まるで「ヒトのそれ」であるようにして、
祭壇に吹き荒ぶ熱風に、焼き尽くされていった。
僅か一分にも満たない拳檄。
しかしそれは、正真正銘の決戦だった。
この地に栄えた「ヒト」の術理と、
この地を求めた「人」の術理。
結果は、紛れもなく人の勝ち。
ヒトは未だ若く、自らの未来をその手で勝ち取るには至らなかった。
彼らは、その上位者である「人」の恩赦により、未来を与えられることになる。
ルーセントは、最期の瞬間まで共感するに至らなかった、
その「狂える獣王」の骸に背を向ける。
そしてその胸中には、底知れぬ感謝があった。
武の究竟を求める「獣」。それは人間性に劣るという意味ではない。
恐らくこの星に住むヒトの全ては、未だ獣に過ぎないのだ。
未知があるから知ろうとする。
空があるから昇ろうとする。
そんな原始的欲求が、形を取ったものに過ぎないのだ。
だから―――そう、ルーセントは「相応しい」と思った。
彼が挑んできてくれて良かった、と、そう思った。
彼こそは間違いなく「無知なる獣(ヒト)の王」であるのだから。
彼を殺し、そうしてやっと「残り半分」を背負えると感じた。
獣血に塗れたこの両手によって―――、
戦いの始終を見守っていた太陽の御子が、
何処からか姿を現し、そして口を開く。
「…ルーセント、もう時間がない。
僕の権能を使うよ。さあ、願いを言って。」
―――ああ、そうだとも。
ぼくと同じだ。ヒトは幼い。
未だ答えを出すことはできない。
だからきみたちに「猶予」を与えよう―――。